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コモと十日町 絹糸が紡いだ姉妹都市盟約

願い事が叶う時は、数分間しか叶わないものもあれば永遠に叶ってしまう時もあります。実 現しそうな願い事、反面、まったく実現しそうのない願い事だって存在します。イタリアの 作家、エルリ・デ・ルーカの有名な言葉が語るように、“子供たちの願い事は未来を形づく る”は、我々も知るところです。エルリが言った言葉の様に、ある一人の少女の願い事が発 端となり、姉妹都市協定締結の実現につながったという例があります。

1975年2月8日、当時9歳だったコモ市の少女ラウラ・クレリーチが日本の新潟県十日町市の 市長に一通の手紙を書きました。その当時すでに、十日町市とコモ市の間では商業上の取り 引きが数件成立していました。

「わたしは十日町市に行ってみたいと心から願っています。これまで本で読んできた日本の 素晴らしい物事を自分の目で見てみたいです。それから、私と同い年の日本の女の子たちと 出会い、日本の女の子たちがどんなことをして遊ぶのか、どんな風に暮らしているのかをこ の目で見てみたいのです」

十日町は1954年に発足し、市の紋章には、この街が誇る美しい自然環境と調和しながら発 展する都市の願いが込められています。

十日町市は冬の時季の豪雪と美味しいコメ作りが全国的に有名で、毎年2月には十日町雪ま つりが開催されます。全国屈指の豪雪地帯であるこの地域は織物業にとって理想的な環境を 提供し、卓越した絹織物業の伝統と、養蚕業は十日町の地場産業として地域経済の中核を成 す存在となりました。そして毎年5月3日には春の一大イベントとして “十日町きものまつ り” が開催されています。

そもそもアジアで発祥した、貴重で優美な絹織物は、西暦1000年頃アラブ人の手により、 まず最初にシチリア島にもたらされたことがわかっています。その後イタリアの他の地域に 広まったと言われており、当時ミラノを統治していたミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの 甥にあたるガレアッツァ・マリア・スフォルツァは絹織物産業を推奨し、領内の地主達に蚕 の餌となる桑の木を5本ずつ領地内に植えるよう命じました。こうして養蚕業、絹織物業が さかんになった北イタリアロンバルディア州北西部の街コモでは、1500年代から1800年代 半ばまでで、ラリオ産(コモ湖の別名をラリオと言う)絹織物業に従事する人の数が45000 人を数えるほどまでに発展しました。コモで有名なのは絹織物産業だけではありません。イ タリア文学の代表作、マンツォーニが著した「いいなずけ」の舞台としても知られていま す。また、乾電池の発明者として有名になり、化学者、物理学者としても活躍したヴォルタ はメタンガスやライターをも、この地コモで発明しました。

絹織物に捧ぐ愛と情熱を仲介にして、日本とイタリアの距離は急速に近づき、コモ市と十日 町市は1975年2月27日、1年間の準備期間、両都市の使節団の訪問を経てめでたく姉妹都市 盟約を批准しました。当時の二人の市長、アントニオ・スパッリーノ氏と春日由三(かすが よしかず)氏がコモ市のツェルネッツィ宮殿の評議会室にて調印しました。式典はこの姉妹 都市盟約締結の発端となった、コモの少女ラウラの手紙を読み上げ、開幕となりました。そ の後長年にわたり、多くの代表団が両都市への訪問を重ね、経済、商業、文化、教育、芸 術、スポーツなどあらゆる方面において親交を深め、2都市の絆は更に強化されていきまし た。

1989年には、コモ市長レンツォ・ピン二氏がコモ市の文化交流団体 “ファミリア・コマス カ協会” に、十日町市との友好親善活動の推進と活性化に関する業務を委託しました。 1955年には、コモ市は姉妹都市締結20周年を記念し、“ルチア”(マンツォーニのいいなず けに出てくる女主人公の名前)と名前の付いた小さな木造船(コモ湖の名物として知られ る)を十日町に寄贈しました。“ルチア”は十日町駅前に設置され、十日町市民に見守られ続 けています。2000年にはその返礼として、十日町からコモ湖畔のソマイーニ広場に、日本 人彫刻家藤巻秀正氏による“友愛”の記念像が寄贈されました。

この像はコモの少女、ラウラとペンパルで友情を育んだ、十日町の少女、木内聡子さんの二 人の少女がモデルになっています。二人が着物の布で戯れて遊んでいる様子を描いており、 姉妹都市盟約締結の発端となり、育まれ続けた小さくも絆の強い友情を象徴しているもので す。また、コモ市のサン・ジョバンニ駅に通じる階段のふもとに “十日町通り” が存在し ていることは多くの人が知りません。

2004年からはコモ市自治体は、前述したファミリア・コマスカ教会と共に、国際文化交流 の一環として学生を両都市に送る交換留学事業の推進を開始、日本文化に興味を持つ学生を 対象とし、両都市間の友好関係から生まれる絆を深めることを目的としています。さらに、 同年、十日町にて開催された第10回石彫シンポジウムの際に、コモ出身の二人のアーティ ストであるブルーノ・ルッツァ―二氏とマッシモ・クレリーチ氏が招待され、二つの作品を 製作しました。ブルーノ氏の作品は “絹に結ばれた姉妹都市” というタイトルで、十日町 […]

By |6月 3rd, 2020|ニュース|0 Comments

大海を隔てて歴史を刻む二都市の友情物語 チヴィタヴェッキアと石巻

文明発展の歴史にはしばしば、海が存在していたか否かが大きく関係しています。大陸と海の関係は、経済、商業活動に大きく貢献するだけでなく、国民の心理にも著しく作用します。果てしなく広がる大海原を日々見て過ごしている国民は当然、冒険や発見への意欲も増すはずです。

チヴィタヴェッキア市と石巻市の間で育まれた友情物語でも海は重要な役割を果たし、何世紀にも渡り、二都市は海に沈む錨の様にゆるぎない友情を築いてきました。

太平洋に面した石巻市、そしてティレニア海に臨むチヴィタヴェッキア市。

1615年に伊達藩の藩士、支倉常長が率いる使節団が出発した街が石巻市で、到着した街がイタリアのチヴィタヴェッキアでした。藩主伊達政宗の命により、1613年に月浦(つきのうら)を出航したガレオン船は常長率いる慶長遣欧使節団をのせ、2年後にチヴィタヴェッキア港に到着し、そこからローマに趣き、当時のローマ教皇パウロ5世に謁見しました。この使節団が派遣された目的は、経済的、商業的な目的だけではなく、日本からメキシコへの新しいルートを開通することを法王に請願するものでした。また、宗教的な目的としては、1597年2月5日に長崎で起こった26人のカトリック信者(西洋人宣教師、日本人カトリック信者を含む)が豊臣秀吉の命により磔の刑にて処刑されたという事件を弔うという目的もありました。

支倉常長は洗礼名をフェリペ・フランシスコ・ハセクラ(改宗後にマドリードにて取得した)といい、同年10月18日にチヴィタヴェッキアに到着し、市民に暖かく迎えられ、使節団はこの街に2週間滞在しました。

歴史に残る2文明の壮大な出会いを記念し、1971年両都市間に、2都市の過去、現在、未来を結ぶ姉妹都市協定が樹立しました。

石巻市は1933年に設立され、慶長遣欧使節団が出航した月浦の近くに位置しています。世界3大漁場のうちの一つに数えられる “三陸・金華山沖漁場” を有する港が石巻漁港です。

両都市間では、文化交流、代表団の訪問、交換留学など、絶え間ない交流が続いています。

チヴィタヴェッキアを訪問する際、何よりも魅了されるのは、やはり、1991年にリヴォルノ門近くのマルコーニ通りに創設された支倉常長の彫像と、1872年建造の日本人カトリック殉教者26人に捧げられた日本聖殉教者教会でしょう。この教会には、1951年から1957年にかけて日本人画家の長谷川路可画伯により作成されたフレスコ画があり、これは画伯からチヴィタヴェッキア市に捧げられたものです。教会内の後陣の両脇部分には長谷川画伯が街の守護聖人サンタ・フェルミナに捧げたフレスコ画、支倉常長に敬意を表し作成されたフレスコ画等が描かれています。また、この日本聖殉教者教会は、“小さき兄弟会” という修道会により管理されており、長谷川画伯作成の、ヨーロッパで唯一の着物を着た東洋系の顔立ちをした美しい聖母マリア様のフレスコ画が描かれていることでも有名です。

さらに、慶長遣欧使節団のイタリアでの足跡は、ローマのクィリナーレ宮殿のコラッツィエリの間の壁画にも、この使節団の法王謁見の様子が描かれています。

イタリアから何千キロも離れた東の果て、現在の宮城県石巻市、太平洋を見下ろす丘のふもとから、“サン・ファン・バウティスタ号” はヨーロッパに向けて処女航海に出発しました。この丘の上には展望台が設けられ、常長の彫像とともに、彼が辿った渡航ルート、記念碑が築かれ、イタリア風の庭園が広がっています。

2011年3月11日に発生した東日本大震災で三陸沖を襲った津波の猛威に曝された石巻市が復興に向けての取り組みを開始した際も、二都市の友情はそのはるかな距離をものともせず、その力を発揮しました。ただちに、チヴィタヴェッキア市に石巻支援委員会が組織され、石巻復興を援助する資金を集めるための一連のイベントが開催されました。

同年10月、姉妹都市締結40周年を記念して、駐イタリア全権大使の河野雅治大使が、チヴィタヴェッキア市を訪問、世代を超えて受け継がれてきた両都市間の友情の証を確認し合いました。

また、2015年10月18日には、サムライ支倉常長率いる使節団のチヴィタヴェッキア入港400周年を記念して、チヴィタヴェッキアの街の中心部にて、当時の使節団が街に入場する様子を再現したイベントが行われました。 

毎年10月にはチヴィタヴェッキアでは日本文化のフェスティバルが開催され、文化交流、代表団による両都市訪問が継続的に行われています。

一見、はるか遠く離れた二つの都市、チヴィタヴェッキアと石巻。長い歴史の途上、文化的、経済的に幾度か強い接点を持ったこの二つの都市は、2都市を隔てる大海原からもたらされた絶妙なバランス感覚を保ちながら、未来への友好関係を育む新世代に刺激を与え、今日も生き生きとした友情を育んでいます。

チヴィタヴェッキア ー 石巻
 1971年 10月

チヴィタヴェッキア
石巻

ラツィオ州
宮城県

温暖な気候
温暖な気候

ローマ帝国時代からの港湾都市
三陸金華山漁場の主要港

おススメスポット:

 ミケランジェロ要塞

トライヤヌス浴場跡

日本聖殉教者教会

おススメスポット:

サン・ファン・バウティスタパーク

石ノ森萬画館

金華山

ご当地フード:

  チヴィタヴェッキア風魚介スープ

ご当地フード:

石巻焼きそば

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 27th, 2020|ニュース|0 Comments

フィレンツェ・京都 未来を構築し結びつく二つの古都

文化と平和の融合を育む遠く離れた二つの都市フィレンツェと京都。フィレンツェは、レオ

ナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、世界的に有名なルネッサンスの主人公たちを

生んだ街です。一方、京都は千年以上に渡って、日本の文化と精神性をかたくなに守ってき

た華やかな街です。堅固な石でできた歴史を物語る古い街並みと、大理石からなる教会の

街、フィレンツェ。半面、京都の町はいにしえからの貴重な木造建築の寺社仏閣に溢れてい

ます。

この両都市はいずれも、かつて、国を代表する文明の首都として栄えましたが、地理的には

あまりにも離れています。

京都は、794年から1868年の間、奈良から遷都した後、首都として栄えました。一方、フィ

レンツェは1865年2月から1871年6月までの6年間、イタリア王国の首都としてその栄華を

極めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都市と自然の関係性について語るならば、フィレンツェに関しては自然に対する支配の結果

と言うことができますし、京都に関しては自然との神秘的な融合から成り立った都市という

ことができるでしょう。

気候の観点から見ても、両都市は全く正反対の特徴を持っています。地中海性気候に属する

フィレンツェとモンスーン気候帯に属する京都。どちらもユネスコ世界遺産に登録されてお

り、芸術と食文化への愛でつながる、他に類を見ない素晴らしい文化を持つ二都市です。

昭和34年(1959年)に在日イタリア大使が京都市長を表敬訪問し、フィレンツェ市との姉

妹都市提携調印の可能性を打診する会談の機会を持ちました。同年、京都市長がフィレン

ツェを訪れ、その比類のない街の美しさに感銘を受けました。

1963年(昭和38年)京都市議会はフィレンツェとの姉妹都市提携案を承認し、同年9月22

日、調印が実現し、めでたく日伊二国間の文化と歴史を結ぶ、記念すべき橋が完成したので

す。

フィレンツェはイタリアの都市の中でも、日本人に最も愛されている都市であり、同時に京

都もイタリア人に最も愛されている日本の都市です。

トスカーナ州の州都であるフィレンツェの当時の市長、ジョルジョ・ラ・ピーラ氏は、この

盟約締結を強く望み、前任だった臨時市長レッロ・レゴーリオ氏と京都大学教授の野上奏一氏の間

で仮調印されていたものを正式に、ジョルジョ氏が署名し、盟約は締結されました。当時の京都

大学教授、野上奏一氏はイタリア文学、イタリア言語学の教授でもあり、フィレンツェ出身の文豪

ダンテ研究の日本における第一人者としても有名でした。この盟約

調印はフィレンツェにおける、地中海諸国、ヨーロッパ兼以外の国との間に締結された初めての

姉妹都市盟約の調印となりました。

1968年にはフィレンツェのガヴィナ―ナ地区に「Via Kyoto」(京都通り)と命名された通

りが誕生しました。

両都市間では、観光業、ファッション、伝統工芸、テクノロジー開発、など様々な分野で交

流、コラボレーションが活発に行われています。

1998年には、京都の高台寺専属の造園家、北山安夫氏が手掛けた日本庭園が、フィレン

ツェのミケランジェロ広場内にあるバラ園の中に寄贈されました。この日本庭園は松籟庭園

と名付けられ、漢字は違いますが、”松籟(風になびいて松の葉が擦れる音を現す言葉)” 

と ”将来” をかけ合わせた二つの意味を持つ言葉が使われています。また、古来、日本人

は松の葉が風で擦れる音を「ショウ、ショウ」という音で表していました。そして、松はこ

の庭園で最も数の多い樹であることからこの名が採用されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005年には、姉妹都市提携40周年を記念して、フィレンツェにて様々なイベントが開催さ

れました。中でも、ガビネット・ヴィスー会場で催された、巨匠フォスコ・マライ―二

(フィレンツェ生まれの写真家、東洋学者)による “フィレンツェ、京都 対比される二

つの街” と題された写真展は大変な好評を博しました。

また、フィレンツェが誇る世界最古の薬局と言われ、ドメニコ派修道院の僧侶による製薬活

動に起源を持つ1221年創業のサンタ・マリア・ノベッラ薬局がこの機会を記念し、“京都の

香水” を発表しました。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は現在、民営化されており、京

都や日本国内の様々な都市にも直営店を展開しています。この記念すべき香水はフィレン

ツェの街のシンボルである百合と同じとして称されるアイリスの花束の香りを基調にし、日

本の花の代表ともいえる官能的な蓮の花の香りをミックスした両都市の融合を象徴する特別

な香水でした。

2006年には、フィレンツェの中央市場と京都の錦市場との間に友好協定が調印され、両都

市の誇る食文化やワイン産業の促進を強化し、さらに豊かにするため、相互的に取り組むこ

とが決定されました。

両都市の姉妹都市提携記念日は10周年ごとに華々しく祝賀されることが決まり、50周年を

迎えた2015年はヴェッキオ宮殿の五百人広間にて、フィレンツェ市長のダリオ・ナルデッ

ラ氏と京都市長の門川大作氏により、将来50年先の友好関係をも祈願し、協定が更新され

ました。

我々誰もが虜にされてしまう、甲乙つけがたいこの二つの華麗な文化都市、フィレンツェと

京都。この二都市間で、我々の心を奪うのは、ボッティチェッリの描いたヴィーナスと戯れ

るはかなく咲き誇る桜の花や、天才レオナルド・ダ・ヴィンチさえも仰天する金閣寺、幾重

にも連なる美しい木造の寺社仏閣群と総大理石でできたサンタ・マリア・デル・フィオーレ

大聖堂の洗礼堂などです。

フィレンツェでは華々しい美しさが私たちを悩ましく圧倒し、半面、京都ではその美しさを

寺の壁の向こう、竹の森の中、禅の庭の岩、哲学の道で、発見するのです。

京都のサッカーチーム、京都サンガ(前:京都パープルサンガ)のユニフォームにはフィレ

ンツェの街のシンボルカラーである紫が使用されています。

こうしてたくさんの対話を経て、強い絆を育んだ二都市の物語は今後も末永く続いていくこ

とでしょう。

フィレンツェー京都
1965年9月22日

フィレンツェ
京都

トスカーナ州
京都府

地中海性気候
モンスーン気候

百合の街
寺社仏閣の街

ユネスコ世界遺産
ユネスコ世界遺産

見るべきスポット
歴史的市街地区
ウッフィツィ美術館
ヴェッキオ橋
サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂

見るべきスポット
伏見稲荷大社
金閣寺
嵐山
錦市場

ご当地フード:
パッパ・アル・ポモドーロ
ご当地フード:
ニシンそば

執筆  Floriana Maci 

翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 20th, 2020|ニュース|0 Comments

ビエッラと桐生が紡ぎだす姉妹都市物語

地球の反対側に位置する二つの都市の物語が、色鮮やかで様々な糸で織られた貴重な織物のようにその伝統産業と記憶を我々に教えてくれます。

遠く離れた地球上の二つの都市、北イタリアピエモンテ州アルプス山麓のふもとの都市、ビエッラ市と、日本の群馬県赤城山麓の裾野に栄える桐生市。両都市ともに古くから織物産業の伝統が息づき、この共通の伝統産業が両都市の姉妹都市締結の批准に大きく寄与しました。

1963年、在日イタリア大使が桐生市を訪問、姉妹都市協定調印への交渉を開始、その後4月にビエッラにて協定調印、そして10月には桐生でも同じく調印され、めでたく姉妹都市としてその道のりを歩み始めました。

桐生市は関東平野の北部に位置し、東京からはおよそ100キロ離れた場所にあります。1300年以上前に絹織物の生産がはじまった、東日本における絹織物産業の中心的な存在です。

奈良時代の752年にはすでに、桐生織りが宮廷に献上されていたという記録が残っており、戦国時代(1600年代)には、関ヶ原の合戦で使用する軍旗の生産を桐生の民が請け負っていました。また、桐生では長年、政府への税金を絹織物で納めていました。桐生織りの誕生は、地元に根付く“白滝姫伝説”の中にうたわれており、この地方に根強く残る民謡“八木節”の中でも、かつての桐生で絹織物産業がさかんに行われていた様子が生き生きと歌われています。

一方、イタリア半島の北部、ビエッラ市は2000年近く昔のローマ帝国時代から、毛織物産業が普及していたことがわかっています。ビエッラ県内のレッソーナという所で出土したローマ帝国時代の “サガリオの碑板” に農民のための目の粗い毛織物の服を作っていた職人たちがこの地に存在していたことが記されています。また、1245年には毛織物産業の著しい発展により、法律によって羊毛ディーラーや、紡績業者の取引が厳しく規制されたこともありました。19世紀初期には、家内工業としても毛織物業が普及し、この地方の家々では一家に一台織機を備え、家庭用、または小売業としても発展し、地域の基幹産業としての地位を確立していきました。

ビエッラで育まれた伝統工芸、文化遺産と街の歴史を鑑賞できるのは、現在ビエッラ地域博物館として生まれ変わった16世紀建造の“サン・セバスティア―ノ修道院の回廊”です。

一方、桐生ではこの街のマスコット・キャラクターとなった“キノピー”が人気です。キノピーの頭は、桐生市の近代産業遺産であるのこぎり屋根の工場がモチーフとなっており、のこぎり屋根の工場は桐生の近代化を支えたこの街のシンボルとしてかつての産業の繁栄を今に伝えています。

ビエッラがこれまで、“羊毛の街”としてその名をほしいままにしてきたのと同様に、桐生も今や、その絹織物産業とその芸術性は大変有名になりました。地元の伝統産業から出発し、現在では有名な世界的デザイナーとの共同開発、地元企業ブランドの確立により、この土地で培われた職人の実直な技術が世界中に桐生ブランドを知らしめています。

両都市の間で紡がれた姉妹都市という名の織物には、国際文化交流、留学生のための奨学金、ファッションショー、国際的なコンクール等が織り込まれ、その結びつきをより強いものにしてきました。例えば、1965年7月にビエッラ市自治体からの奨学金を得た最初の日本人留学生は田沢千代子さんでした。これを契機にビエッラを訪れる日本人留学生、旅行者のグループは絶えず、同様に桐生を訪れるイタリア人も跡を絶ちません。1993年には桐生にて“桐生イタリアウィーク”が開催され、一方、ビエッラの紡績、繊維企業が軒を連ねる“ヴィア・デラ・ラ―ナ(羊毛通り)”でもこのイベントのためにたくさんの企画とアイデアが生まれました。

また、1995年8月には、二人のイタリア人が“カシミアロード・プロジェクト”と称するプロジェクトを立ち上げ、ビエッラから自転車で出発し桐生を目指しました。実に22.000キロの距離を走破し、9月20日に桐生に到着。その間、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、モンゴル、中国を経由し、ウール、カシミアの原材料生産国の地元の文化に触れるというプロジェクトの目的を果たしたのです。

2003年11月21日の姉妹都市調印40周年記念日には、両都市間の歴史に残る記念消印がイタリアで発表されました。

さらに、2010年4月にビエッラ市のエンリコ・グレンモ青年が自転車でビエッラを出発しました。目的地は?もちろん桐生です。5か月後の9月に無事到着し、桐生市長を表敬訪問しました。この偉業は両都市の歴史の中でひときわ輝くストーリーです。

ビエッラと桐生の間で紡ぎ続けられた国際文化交流は、織物をなす縦糸と横糸のように完璧なまでに絡み合い、結びつき、両都市間に強い絆が生まれました。この絆のあかしはファッションの世界にて突出した個性として確立しています。両都市が歴史の中で培ってきた伝統と職人技に対する献身と愛を、高品質で創造性溢れた織物を通して世界中に示しているのです。 

ビエッラ ー 桐生
1963年 10月 12日

ビエッラ
桐生

ピエモンテ州
群馬県

ビエール・アルプス
赤城山

亜アルプス気候
寒冷な気候

急流、渓流が豊富
桐生川

見るべきスポット
毛織物産業遺産建築物
マドンナ信仰の巡礼地・オローパ
ゼニヤ自然保護地区

見るべきスポット
絹織物産業遺産建築物
織物参考館・紫
梅田湖

ご当地フード
アンドルノのラタフィア(デザートワイン)

ご当地フード
ソースかつ丼

執筆 フロリアーナ・マーチ 
翻訳 土田 ゆかり

By |5月 13th, 2020|ニュース|0 Comments

ジャピット・プロジェクト2020年 2021年

類まれな美しさを持つ二つの国、日本とイタリア両国の友情に捧げるJAPIT(ジャピット=ジャパン&イタリア)プロジェクトの第一弾は、1960年~2016年にかけて調印された42の姉妹都市協定についての連載企画からはじまります。地球の反対側に位置し、極端に異なる文化を持つ日本とイタリア。両国の間には、日本人やイタリア人本人たちにも説明しきれない繊細で深い絆が存在し、これまでも二国間で幾度となく対話が持たれてきました。そして、まるで恋人同士のように魅了し合い、時にはお互いの違いをまざまざと思い知ることにより、そこから、世界で他に類を見ない独創的な日伊プロジェクトが生まれると私たちは考えます。

 テゾーリ・ディ・イタリアとテゾーリ・オブ・ジャパンは共同でこのジャピット・プロジェクトを始動し、両国間の歴史、文化、ビジネス等、様々な方面から両国の友好関係をクローズアップします。その初回は、1960年5月3日、日伊間で初めて調印され、今年60周年を迎えたナポリと鹿児島を結んだ姉妹都市盟約についてです。最終回は2016年に調印された最も若い姉妹都市、ティヴォリ市と湯河原市までバトンは渡ります。
日本、イタリア両国籍の編集者で構成される我々の編集チームが執筆する記事では、姉妹都市提携を結ぶことになった理由、その目的、達成された成果、進行中の活動、さらに、未来に向けてのプログラム等を説明するとともに、この84の都市のそれぞれの物語をクローズアップし、その魅力を読者の皆様に届けます。このジャピット・プロジェクトはグローバリゼーション化の更なる発展、国際交流のよって育まれるきずなを強化するシンボルとなるはずです。
両都市間で築かれた歴史を再構築し、生きた情報を収集することで生まれるこのプロジェクトを前進させるため、イタリア、日本両国において活動中の団体、協会などに協力を要請するとともに、日本文化、イタリア文化の愛好家、研究者の方にも広く協力をもとめるものです。

日伊間の姉妹都市のほんの数例を挙げると、1965年調印の京都とフィレンツェ、1976年、熱海とサンレモ、1981年、大阪とミラノ、1996年、東京とローマ、2005年、名古屋とトリノ、そして同年、板橋区とボローニャ市。
日本とイタリアの素晴らしい友好関係の誕生はそのルーツを1615年にまでさかのぼることになります。
仙台藩主 伊達政宗の命により、藩士 支倉常長が慶長遣欧使節団の使節として、スペイン王国およびローマ教皇パウロ5世のもとへと派遣された際、イタリアのチヴィタベッキア港から上陸し、日伊間の友好関係の門戸を開いたのが、はじまりです。その後、数世紀を経て、1971年にチヴィタベッキア市と宮城県の石巻市は正式に姉妹都市協定を結び、今日まで友好関係を築き上げてきました。

姉妹都市の友好関係が持つ、その魅力と影響力は大変大きなものがあります。しかしその締結までの道のりは長く、過酷なものです。外交上および、実務上の観点から見ても、また、二国間の外交的、社会的、経済的状況を鑑みると、両国の最大限の努力、高い協調性、相互責任が必要不可欠なことはいうまでもありません。
日本ではこれまで、1762もの姉妹都市協定が結ばれており、その数はイタリアがこれまで調印した協定数 2755(ヨーロッパの都市間のみ) からはほど遠いものの、国際協力プロジェクトに対して、日本がどれほどオープンで協力的かを如実に物語っている数字と言えます。(出典:CLAIR – Council of Local Authorities for International Relations)
これから2年間にわたり、60冊のテゾーリ・オブ・ジャパン発刊を予定しており、読者の皆様と60回、過去にタイムスリップする旅が始まります。このジャピット・プロジェクト第一弾の主人公である84都市をご紹介するための42歩の足跡、そこには二都市を結ぶ友情物語を作ってきた、人、歴史、文化遺産がたくさん詰まっています。発刊までお待たせする間、在イタリア日本国大使館のウェブサイトにて、最新の日伊姉妹都市リストをご参照ください。

執筆:リッカルド・ドゥルソ
翻訳:土田 ゆかり

By |5月 11th, 2020|ニュース|0 Comments

ナポリ・鹿児島 姉妹都市盟約60周年の友情

5月3日は日本の鹿児島とイタリアのナポリのいわば結婚60周年ダイヤモンド婚の記念日です。イタリアで初めて日本の都市との友情と文化交流を確立したのがナポリです。

ナポリと鹿児島を第一弾として始まるJAPIT (ジャピット=ジャパン&イタリアの略称)プロジェクトは、稀有な美しさを持つ二つの国、日本とイタリアに捧げられた連載企画です。1960年から2016年に渡り、調印され両国の絆を深めてきた42の姉妹都市についての特集です。

鹿児島とイタリアの最初の出会いは16世紀までさかのぼります。1549年に鹿児島に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本人として初めて洗礼を受けた鹿児島の青年ベルナルド (日本名は不明) に由来します。ベルナルドは日本人初の留学生の一人として、当時のローマ教皇パオロ4世に謁見するため、ナポリを経由してローマに到着した日本人のうちの一人でした。

また、鹿児島は古くから、“東洋のナポリ” と呼ばれています。有名なナポリ湾とベスビオ 火山を背景にした景観が見事なナポリと同様、鹿児島も錦江湾が取り囲む雄大な桜島のパノラマが望め、両都市は、まるで絵葉書のようなよく似た美しい景色をもつことで知られています。

両都市間の最初の交流は1955年ころに始まり、姉妹都市提携は1960年5月3日に調印されました。姉妹都市提携の際、1958年から1964年まで駐日イタリア大使として駐在したマウリリオ・コッピ―二大使が調印しました。5月14日には鹿児島にて姉妹都市盟約を祝う公式式典が盛大に行われ、同年12月9日にはナポリにて、同様の調印式典が催され、その際、訓練船鹿児島丸が日本からはるばるナポリまで、処女航海をはたしました。このナポリでの調印式典開催2か月前、鹿児島の街のある通りが “ナポリ通り” と命名され、一方、ナポリのヴォメロ地区にも鹿児島通り(Via Kagoshima)が存在することは多くの人が知りません。
両都市間の友情は年を重ねるごとにその絆を深め、毎年、鹿児島市民の代表団が報奨旅行としてナポリを訪問します。

1991年3月25日には、鹿児島市で “ナポリ号” と命名された路面電車が導入され、市内を縦横に走っています。
2010年には、姉妹都市盟約50周年を記念して両都市で盛大な祝賀会が催されました。ナポリのビジネス地区に “ラルゴ鹿児島” と命名された広場が誕生し、地球の反対側の日本では鹿児島市内のレストランが参加する、鹿児島独自の食材を使ってイタリアン・メニューを創作するという「ナポリ・プロジェクト」が発足しています。
そして、60周年記念は?
残念ながら、新型コロナウィルス感染拡大を懸念して、両都市間で予定されていた主要なイベントが中止、または延期となりました。ナポリでは鹿児島からの代表団、ゲストの到着、コンサート開催も予定されていました。一方、鹿児島でも5月3、4日に「姉妹都市盟約60 周年記念 かごしまの風と光とナポリ祭」が開催予定でした。イベントは中止、延期となり ましたが、鹿児島とナポリの友情は当然ながらこれからも生き続け、両都市がつづるページ にはまだまだたくさんの伝えたいことがつまっています。

ナポリ・鹿児島
1960年5月3日
姉妹都市盟約60周年

ナポリ
鹿児島

カンパーニア州
九州

ヴェスビオ火山
桜島

ナポリ湾
錦江湾

温暖な気候
温暖な気候

青い空と海
青い空と海

ラルゴ鹿児島 ビジネス地区
鹿児島通り  ヴォメロ地区
ナポリ通り
路面電車 ナポリ号

見るべき観光スポット
世界遺産 ナポリ旧市街地区
見るべき観光スポット
世界遺産 仙巌園

食べるべきもの
ナポリピザ
食べるべきもの
かごしま黒豚

執筆 Floriana Maci 翻訳 Yukari Tsuchida

Dall’Archivio Storico Istituto Luce

By |5月 4th, 2020|ニュース|0 Comments

“メイド・イン・イタリ―” 産業の復興に向けて、テゾーリ・ディ・イタリアは実行委員会をスタートさせます。

テゾーリ・ディ・イタリアは、現在世界中を脅かしている経済危機に対してイタリア企業をサポートするプロジェクト “S.O.S Teniamo l’Italia ” (イタリアを支援しよう) キャンペーンを遂行するプロフェッショナルチームを編成しここに公式に発表します。

募金活動だけにとどまらず、人と企業を建設的に結びつけることを目的とし、企業家同士の結束を推奨し、イタリア経済の再生を全面的に支援するプロジェクトを始動、イタリアで発生し始めている多数の問題をクローズアップし、その解決に向けて最大限の努力を注ぎます。

当委員会は二つの評議会によって構成されます。一つは、ジャパン評議会。日伊両国の政府機関、企業、協会等を通じて “S.O.S Teniamo l’Italia” キャンペーンを普及させることを趣旨とし、日伊両国だけでなく世界にもこの輪を広げることに従事します。

二つ目はインターナショナル評議会。全世界にこのキャンペーンを普及させると同時に

“メイド・イン・イタリー” 産業復興に向け、新しい、経済面、文化面での国際的なパートナーシップを立ち上げる役割を果たします。

さらに当委員会は今後、イタリア産業界が活動を再開する局面に際し、新型コロナウィルスに関する保健衛生情報だけでなく、経済活動再開時に従わなければならない規則、その他の有用な情報を一般市民および、企業に提供していきます。

したがって、テゾーリ・ディ・イタリアは、現在の緊急事態に関連する保健衛生情報の提供、また、今後のイタリア社会、経済の再興を促進する戦略企画、および、文化共有活動、イベント、等々、全ての活動を統合することにより、2020年の活動計画を再編成します。 

当実行委員会は以下のメンバーで構成されます。

・テゾーリ・ディ・イタリアCEO リッカルド・ドゥルソ
・WJネットワーク取締役  ヴィ―ト・ロンバルディ
・テゾーリ・ディ・イタリア・ジェネラル・コーディネーター  クラウディア・メーレ
・ドゥルソ・インターナショナル・マネージメント取締役   リッカルド・デ・ルーカ
・テゾーリ・ディ・イタリア地域コーディネータープーリア州担当 フロリアーナ・マーチ
・テゾーリ・ディ・イタリアネットワーク通商部門担当   チェリーネ・アルカーラ
・テゾーリ・ディ・イタリア編集協力   土田 ゆかり
・テゾーリ・オブ・ジャパン・ディレクター   星屋 進児
・ハイ・クオリティー・イタリー・ジェネラルマネージャー ジュリアーナ・ダントゥオーノ
・レストグループ取締役   ラーラ・トリチェッリ
・レストグループディレクター  ロレーナ・ベッロッティ
・アメリカ国際ビジネス戦略コンサルタント  バルバラ・パンサ
・日本イタリア観光コンサルタント   レナート・リッチョ
・観光コーディネーター   アドリア―ナ・リッチョ

By |4月 20th, 2020|ニュース|0 Comments

S.O.S. Teniamo l’Italia (イタリアを支援しよう)キャンペーンへの在日本イタリア大使館正式なサポート決定

在日本イタリア大使館 駐日イタリア大使 ジョルジョ・スタラーチェ氏から公式に連絡があり、“テゾーリ・ディ・イタリア” のプロジェクト、S.O.S. Teniamo l’Italia (イタリアを支援しよう)キャンペーンへのサポートが正式に決定されました。今、互いに団結することが肝要な時期であり、このサポートは、大変重要な意味を持ちます。イタリア大使館からイタリア本国の企業に対する支援をいただけることは、今後メイド・イン・イタリー製品の輸出を奨励していくうえでとても重要な意味を持ちます。

以下はスタラーチェ大使の言葉です。 “ COVID – 19 によって引き起こされた我々全人類の健康を脅かしている緊急事態は、イタリア本国、そしてイタリア中の産業界、特に中小企業に新しい課題をつきつけています。先日、イタリア政府当局によって明言されたように、イタリアからの諸外国への輸出は国内の企業にとって根本を成す需要な要素であり、今後世界に向けてメイド・イン・イタリーの再建を構築していくうえでの柱の一つです”

スタラーチェ大使の言葉を借りれば、特にイタリアの中小企業がこれから直面することになる困難を互いに認識し合うことが必要不可欠であり、また、メイド・イン・イタリー製品の輸出がイタリア経済回復への重要な鍵を握るということを、我々のような団体が声高に宣言する必要があると考えます。

したがって、在東京イタリア大使館のソーシャルネットワーク、また、報道機関を通じて S.O.S. Teniamo l’Italia (イタリアを支援しよう)キャンペーンを広く宣伝していただけることになりました。

テゾーリ・ディ・イタリア ネットワークは、在日本イタリア大使館に深く感謝の意を表するとともに、イタリアと全世界の人々にもう一度このキャンペーンへの参加を呼びかけます。みんなで団結すれば、我々の国、イタリアに実質的な貢献と、継続的で確実な未来をもたらすことができるはずです。

団結すればきっと大丈夫!

By |4月 7th, 2020|ニュース|0 Comments

Riccardo d’Urso

リッカルド ・ドゥルソ 経歴

1970年11月1日ナポリ生まれ
ナポリ東洋大学卒業、日本語選考
東京長沼スクール、大阪外大、日本の文部省の奨学金を受け京都花園大学にて日本語と日本学を学ぶ
1994年より在日本
1998年よりマーケティング コンサルタントとして日本の重要な貿易会社に協力し調査、研究に携わる。また有名百貨店のイベント企画に従事しイタリア製品とそのブランドマネージメントに務め、販促活動に貢献する。
2001年から2009年まで「日本におけるイタリア年」の名のもと、イタリアのベンチャー企業の発掘のためイタリア外務省に協力。
2010年 「ストリーム・イット・ジャパン」、初めてのイタリアネットテレビのプロジェクトを立ち上げ、経済産業省のパックアップによる日本におけるイタリアのプロモーションを行い、直ちに様々な重要なイタリアの団体からの引き合いを受ける。
2012年、外務省高官からの依頼により、韓国の麗水(ヨス)とオランダのフェンローの両エキスポ
においてイタリア館のウェブマーケティングの営業を任される。
2013年、イタリア文化遺産協会(レ・マッペ・デェイ・テソーリ・ディ・イタリア)の専務理事を引き受け、全てのイタリア省庁とミラノエキスポに支持される。名古屋にその支部を持つ本協会は2014年に「特定非日本イタリア産業文化推進協会テソーリ・オブ・ジャパン」と「ダブルジェイ・ネットワーク」を築く。

2014年よりグラナ・パダーノチーズ保護協会の日本代表に就任、2018年まで日本においてグラナ・パダーノチーズの普及促進活動に従事。また、ナポリの老舗ピッツェリア「アンティーカ・ピッツェリア・ダ・ミケーレ」アジア、極東エリア開発における総責任者として、日本の東京、福岡、横浜にアジア初の3店舗開店を導く。

2017年1月、イタリアの雑誌「テゾーリ・ディ・イタリア マガジン」を買収。イタリアの重要政府機関、省庁より後援を受け、雑誌編集、出版活動をスタート。現在、編集長として世界中に200万人の読者を持つテゾーリ・ディ・イタリアネットワークを展開中。

By |4月 6th, 2020|Senza categoria|0 Comments

橋本女史の10のルール

世の中には触れるものすべてを ”金” に変えてしまう人々がいます。

負のエネルギーをフィルターにかけ、正のエネルギーに変えてしまうように、あらゆることに対して解決策を持っている人々です。そして、彼らが女性である場合、日本のように、いまだ家父長制の伝統が根強く残っている国においては、彼女たちの生き方や行動がより大きな意味と価値を生み出します。橋本登志代さんもそんな女性たちのうちの一人です。

名古屋城を眼下に見下ろす魅惑的なロケーションのホテルウエスティン・キャッスルナゴヤにて、橋本さんからお茶に招待されました。私からのいくつかの短い質問にこたえていただきながら、橋本さんのお話を語っていただく中、無邪気な笑顔と愛らしさで、彼女はバッグから真っ白な数枚の紙を取り出し、”ほら、ここに私から世界中の女性に向けてのささやかなアドバイスを書いてきたの” と一言。

彼女が語り、橋本女史の10のルールが浮き彫りになるとともに、次第に ”金” のオーラが私たちを包み始めていることに気づきました…..

By |4月 2nd, 2020|ニュース|0 Comments