ニュース

/ニュース

リエーティ市と伊東市、 新聞記事の切り抜きが結んだ友好都市ストーリー

かつてイタリアの人気テレビ番組で “国境のないゲーム”(Giochi senza frontiere)という
番組がありました。また、4年に一度オリンピックが開催され人々を熱狂の渦へと巻き込む
ように、スポーツや、競技は一般に国籍や文化の違う人々を結びつける働きをします。

リエーティ市と伊東市の友情物語を語り始めるには、こんな風に始めるのがいいでしょう。
“昔々あるところにピンク色をしたイタリアの人気スポーツ新聞、「ラ・ガゼッタ・デッ
ロ・スポルト」がありました。この偉大なるスポーツ新聞は現在もなお、スポーツに関する
記事をイタリア人読者に毎日提供しています”

1979年の夏、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙は日本で行われている、とある民俗行事につ
いての記事を掲載しました。日本の伊東市で開催される “たらい乗り競争” についての記
事で、イタリアでワイン醸造時に使用されるワイン樽(半分に切ったもの)によく似たたら
いに乗って川を下る水上レースです。

この記事を見たリエティ市民のマリオ・カルナッチ氏はリエティ市で1969年より行われて
いる、リエーティ・太陽の祭りの市民委員会委員長にこの記事の切り抜きを送りました。リ
エーティ・太陽の祭りのメインイベントである “ワイン樽レース” が伊東市の松川で1957
年から始まり、毎年7月に行われる “たらい乗り競争” に酷似していることに着目したた
めです。

こうして、温泉が湧くことで有名な静岡県の伊豆半島に位置する伊東市は、リエーティ市の
友好都市の対象として候補に挙がることになりました。リエーティ市はイタリア中部に住ん
でいた古代部族サビー二人が作った都市で、ラツィオ州リエーティ県の県庁所在地です。リ
エーティ市はテルミニッロ山の斜面に切り開かれた歴史深い街です。伊東市、リエーティ
市、両都市ともに重要な河川が街を流れることが共通点で、それぞれ、松川とヴェリーノ川
と呼ばれています。

リエーティと伊東はまるで恋人同士の様にまずはお互いをよく知り合い、情報交換、公式訪
問の期間を経て、1985年7月21日、リエーティ市において友好都市協定を調印しました。こ
の友好都市協定調印を記念して、ヴェリー二川のほとりにあるリエーティのローマ帝国時代
の橋のほとりに「リエーティ・伊東 永遠なれ!」というモットーが刻まれた銘板が設置さ
れ、ほどなくして、伊東市の松川のほとりにも同様の銘板が設置されたのです。

友好都市協定締結20周年を記念して、伊東市のリエーティ広場には記念碑が設置されまし
た。リエーティ市から送られたオリーブオイル搾油用石臼のモニュメントと、イタリア半島
や、リエーティの伝統衣装を纏った女性、オリーブの枝、テルミニッロ山が描かれたモザイ
ク画が、リエーティ広場の噴水をかたちづくり、オリーブの木も植樹されました。

2015年には、30周年記念を迎え、リエーティ市フラーヴィ通りの “伊東公園” の開園式典
が盛大に行われました。

リエーティ市と伊東市の間で育まれた友情物語は、単なる偶然から生まれ、それぞれの街に
流れる川で行われる伝統行事を縁として始まりました。そして、この友好関係は長年に渡り
続き、数多くの文化的、および商業的交流が生まれています。リエーティ市の友好都市委員
会は、日本人学生をホストファミリーとして迎える意向のあるリエーティ市の30以上の家
庭のリストを作成しました。

2018年には、リエーティ市は日本人観光客を市内の宿泊施設にて優遇する “ジャパン・フ
レンドリー” システムの導入を開始しました。

2019年12月には、リエーティ市友好都市、国際文化交流委員会の責任者、エリザべッタ・
オッキオドーロ氏が日本大使館に招待された際、CIRプロジェクトの発足を発表しました。
このプロジェクトは、伊東市が経費を出費し、リエーティ市出身の学生(25~35歳)を伊
東市内にて一定期間雇用し、報酬も支払うという派遣プログラムです。

1979年の夏、ある一つの新聞記事がきっかけとなり、地球上に散らばっていた二つのパズ
ルのピースがひとつにまとまりました。この偶然の縁からすべてが始まり、いまや30年以
上も続く、友情と敬意に満ちた二都市の物語に命が吹き込まれ続けています。そして、リ
エーティ、伊東、両都市の市民たちはもはや、正真正銘の “地球の市民” としての自覚を
持つに至るのです。

リエーティ ― 伊東
1985年7月21日

リエーティ

伊東

ラツィオ州

静岡県

大陸性気候

温暖湿潤気候

観光スポット:

リエーティ旧市街地区
フォンテ・コロンボの修道院(アッシジの聖フランチェスコの聖地)
聖地グレッチョ(アッシジの聖フランチェスコの聖地)

観光スポット:

城ケ崎海岸
大室山

ご当地フード:

スパゲッティ・アッラ・アマトリチャーナ
ピッツィコッティ(イタリア版すいとん)
リエーティ風テルツェッティ
(正月の菓子)

ご当地フード:

うなぎパイ
ワサビ漬け
静岡茶

 

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

 

By |8月 19th, 2020|ニュース|0 Comments

遠野市とサレルノ市 30年以上に及ぶ友情物語

遠野市とサレルノ市が築き上げた友情のストーリーは、ルーツが異なるにもかかわらず、共
通のプロジェクトと同じ未来図を持つ二つの都市の住民が30年以上にわたり、両都市間で
大切に築いてきた文化交流の歴史を物語っています。

古くから土地に伝わる民話、おとぎ話を研究して読み解くことはその土地の伝統文化を知
り、住民の住む世界、ひいては住民自体を理解し、ひも解いていくことに他なりません。

架空の物語は人々と文化を横断的に結びつける働きをし、と同時にその文化の持つ特殊性に
ついて伝える力を持っています。想像の世界の言葉を通して、お互いを知ることができ、親
近感を持つことから、実際の出会いへとつながり、遠く離れた距離は、お互いの好奇心を生
む刺激へとつながるのです。

遠野市とサレルノ市は、全く異なる特徴を持つ二都市です。遠野市は三万人ほどの人口を持
ち、周囲を山と水田に囲まれた小都市です。一方、サレルノ市は13万人以上の人口を誇
り、ナポリの南東に位置する港湾都市で、ボナディエス丘陵地帯のふもとに開けた大きな都
市です。またサレルノ市はティレニア海に面し、風光明媚な景観で名高いアマルフィ海岸を
北部に有し、南部にも重要な観光地のひとつであるチレント海岸があります。

1984年8月8日に、サレルノ市と遠野市は、映画 “遠野物語” にその端を発する姉妹都市提
携を調印しました。遠野に語り継がれる民話がこの二都市を30年以上も結びつけるきっか
けとなったことは実に奇妙なめぐりあわせとしか言いようがありません。

1910年に日本の民俗学者、柳田國男が民話の大規模な集大成として“遠野物語”を編纂したこ
とで、遠野市は民話の里として知られています。民話の中でも最も有名な登場人物と言え
ば、”河童”です。川や沼に住み、半身が人間で、半身は亀という緑色の生き物で、好物であ
る人間の子供を沼などのわなに陥れ、食べてしまいますが、きゅうりと交換することを提案
すると喜んで受け入れるという憎めないキャラクターです。また、遠野市内には、遠野地方
の伝統的な農家の住宅である ”南部曲り家”(母屋と馬屋が一体となったL字型の萱葺きの
住宅)がいまだに残っており、この地方の伝統風俗を体験できる博物館としての機能も果た
しています。さらに、遠野の文化と伝統を守り、後世に伝える人々を “まぶりっと(守る
人)”と呼び、このまぶりっと衆が昔ながらの遠野の風習、習わしを新しい世代に伝えてい
るのです。

一方、サレルノは数世紀に及ぶ長い歴史を誇る都市で、市内は数多くの史跡に富み、その姿
はさながら “野外博物館” のようです。この都市が持つ魅力は古代ロンゴバルド公国時代
の繁栄の痕跡と現代的な都市景観が同時に見られるという、いわば伝統と現代性の融合で
す。サレルノ市ではここ数十年で、古い建物や、郊外の地区の歴史的価値を再評価するプロ
ジェクトが実施されており、歴史的建造物に再び命を与え、歴史と伝統を現代に継承してい
くという趣旨の様々なコンペティションが開催され、日本からも若い有能な建築家たちが参
加を表明しました。老朽化が進んだサレルノの歴史的建造物、サン・マッシモ邸周辺の修復
計画にも日本人建築家がプロジェクトを提案し、この地区の持つ歴史的背景、高低差のある
地理的条件を最大限に考慮し、複数の公園と緑にあふれた垂直庭園の着想を提案しました。
さらにサレルノ市北部旧市街地区再生計画と題したプロジェクトが提案され、市民を悩ませ
ている交通渋滞、駐車場の不足に関しても夏期的なアイディアを提示し、サレルノ都市再生
計画推進の一助を担おうとしています。

このように、建築業界での友好関係は両都市の絆をより強く深める結果となりました。

遠野市とサレルノ市の姉妹都市締結へのすべての発端は、1982年10月、映画 “遠野物語”
が第35回サレルノ国際映画祭においてグランプリを受賞したことに始まります。この映画
を見たサレルノ市長アルベルト・クラリツィア氏が “遠野物語” の監督である村野鐵太郎
氏に遠野市長宛ての親書を託したことがきっかけです。

その後、遠野市長とサレルノ市長との間で返礼の手紙の交換があり、1983年2月には、姉妹
都市締結は遠野市議会にて満場一致にて可決されました。その翌年には、サレルノ市へ遠野
市から使節団が派遣され、公式に姉妹都市締結の調印が行われ、同時に世界平和を希求し、
人類全体にとっても大きな友好関係のモデルとなることを祈願しました。

2004年、姉妹都市締結20周年を記念する式典の際に、サレルノ市役所の市民の間にて、二
都市を結びつけるきっかけとなった映画、“遠野物語” が再び上映されました。

その後、両都市間の文化交流が途絶えがちになる数年間が経過しましたが、2011年、東北
地方を襲った地震により甚大な被害を受けた遠野市に援助の手を差し伸べようと、姉妹都市
締結20周年の機会に親善大使に就任したアンナマリア・ヴァリトゥッティさんの指揮のも
と、サレルノ市は募金活動を開始。交流の歴史は再び再開されたのです。

2012年3月には、姉妹都市提携調印更新式典が行われ、遠野からの代表団がサレルノ市に到
着、その際、壮大な伝統衣装をまとった踊り子の一団が遠野の無形民俗文化財である“しし
踊り”(鹿の面をつけて踊る鹿踊り)を披露しました。

両都市間の文化交流の一環として、サレルノの市民が遠野市の一般家庭にてホームスティし
たり、遠野市からもスポーツ、食べ物、ワインなど、様々なテーマに基づいた使節団が組織
され、サレルノ市、またはカンパーニア州を巡る視察旅行が催行されています。ビジネスの
観点から見ても、両都市間の交流は行われており、2016年にはサレルノ商工会議所が開催
したイベントにて、遠野市の紹介とともに、遠野産の日本酒がサレルノ市民に紹介されまし
た。
土地に語り継がれる物語の数々はその土地の住民のアイデンティティ、そして、土地が育ん
できた世界観を創造するものです。古くから語り継がれてきた民話から生まれた魔法がきっ
かけとなり、遠野市とサレルノ市は接点を持つようになりました。

お互いを知りたいと願うことが好奇心を生み、遠く離れた二都市を結ぶたくさんの扉が築か
れ続けています。この扉は友情の大切さを強く訴えかける両都市の絆の証なのです。

サレルノ-遠野
1984年8月8日

サレルノ
遠野

カンパーニア州
岩手県

気候: 冬季でも温暖、夏期は乾燥し、暑い
気候:湿気に富む

おすすめ観光スポット:

サレルノ旧市街地区

サレルノ大聖堂

おすすめ観光スポット:

福泉寺

遠野ものがたりの館

ご当地フード

アンチョビのピアッテッラ(オイル炒め)

サンタ・ローザのスフォリアテッラ

スカッゼッタ・デル・カルディナーレ
(苺のケーキ)

チャンボッタ(野菜のオイル煮)

ご当地フード:

ジンギスカン

どぶろく

がんづき

ワサビビール

 

 執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.tonojikan.jp
www.tono-furusato.jp
www.festivaldelcinema.it

By |8月 5th, 2020|ニュース|0 Comments

チェルタルドと甘楽 一粒の麦が芽吹き、未来の世代へと豊かな実りをもたらした姉妹都市協定

イタリア文学の古典 ”デカメロン” の冒頭で作者ジョバンニ・ボッカチオが彼の故郷チェ
ルタルドについて ”小さな街だがすでに貴族や裕福な家族が暮らしていた...”と描写し
たとき、その数世紀後にこの街が日本の群馬県の甘楽町と姉妹都市提携を結び、国際文化交
流の中心地となることなどどうして想像できたでしょう。チェルタルドはトスカーナ州のな
だらかな丘陵地帯エルザ渓谷に位置するトルコオークの林に囲まれた美しい中世の街です。

一方、甘楽町は東京から100㎞北方に位置し、今から60年前に周辺の小さな町を合併し
甘楽町が生まれました。甘楽町の歴史の起源は大変古く、旧石器時代にまでさかのぼり、江
戸時代には絹織物産業の中心地として栄えました。甘楽町には江戸時代初期に造られた借景
庭園の ”楽山園” があり、街のかつての繁栄を色濃く残す歴史と調和に溢れた美しい風景
を誇る街です。

チェルタルドと甘楽町の姉妹都市提携の発端は、甘楽町での国際イベントに参加したイタリ
ア人作家がチェルタルド市との姉妹都市提携を提案、その後両都市の代表団同士の対話を経
て、1983年10月20日に友好親善姉妹都市協定がチェルタルド市のプレトリオ宮殿に
て批准されました。

姉妹都市提携を結んでから今日まで両都市の間では数多くの交流が育まれてきました。これ
まで日本の甘楽町を訪問したチェルタルドの使節団の派遣回数は10回、甘楽町からチェル
タルド市への使節団の訪問は17回にも及びます。実に2年ごとに両都市間では交換留学も
行われており、未来を担う世代の若者が国際交流の重要性を理解するうえでとても意義深い
ものとなっています。

大地に撒かれたひとつぶの麦が心を込めて育てられ、芽を出し、後には恵み多い麦畑となる
ように姉妹都市間の友情はこれまで育まれてきました。

チェルタルドと甘楽の間に生まれた確固たる友情は、常に二都市の代表団の交流を活気づけ
てきましたが、2013年10月に二都市の代表者と駐伊日本大使館の代表者との立ち合い
によってあらたに署名された姉妹都市協定の更新によって、その絆をさらに強いものにしま
した。

チェルタルド市は甘楽町から友情の印として、茶室 ”甘楽庵” を寄贈されました。この茶
室はイタリア在住の日本人アーティスト長澤英俊氏による作品で、いわば、”ホルトゥス・
コンクルスス (聖母の秘密の園) “ 東洋版として、プレトリオ宮殿の中庭に設置され、東洋
と西洋の完璧なまでの対話の場所を表現しています。”甘楽庵” がある中庭には日本の桜の
木が植樹されており、漆喰の壁と小さな盛り土の間で元気に育っており、細い敷石の小道の
先に木造の茶室が静かに佇んでいます。

Certaldo, Foto da SiViaggia.it

甘楽町では ”道の駅・甘楽” にてチェルタルドのあるトスカーナ州の雰囲気を味わうこと
ができます。”道の駅・甘楽” ではチェルタルド市から直輸入したワインやオリーブオイル
の直売コーナーがあり、ワインボトルを使った照明に照らされた店内では、毎月20日は
“ワインの日” と定め、日本ではここでしか手に入らないワインを紹介しています。また、
“道の駅・甘楽” のピザ工房のピザ窯のタイルはチェルタルドで製作されたもので、甘楽町
とチェルタルド市の二つの紋章が描かれています。このピザ工房では、実際にチェルタルド
市のピッツェリアで研修を終えたスタッフがピザを作っています。

2019年秋には、チェルタルドの異文化交流協会が日本の甘楽町のレストラン ”プレ
トーリオ” にて、トスカーナ州の伝統料理を教えながら日本料理を学ぶという研修滞在に
興味のあるトスカーナ出身のコックを公募しました。

二都市間の交流の中で特筆すべきことは、両国のイベント開催時には、代表団が必ず出席し
ていることです。姉妹都市提携35周年を迎え、チェルタルドの有名な大道芸の祭典 ”メ
ルカンティア” に甘楽町芸能使節団が出演しました。一方、甘楽町でもボッカチオに関す
る展覧会が催されるなど、相互交流が盛んです。

2015年には二都市の培ってきた絆をさらに強化するため、チェルタルド在住の日本人、
稲葉美代子氏が両都市の交流協会の一員となり、正式に甘楽町海外駐在員として任命されま
した。

友情、平和、文化交流を希求する心は、これまで常に二都市の関係を活気づけてきました。
チェルタルドと甘楽の市民たちは、人類の平和の構築に確実に貢献していると確信し、常に
未来に目を向け続けています。

チェルタルド ー 甘楽
1983年10月20日

チェルタルド
甘楽

トスカーナ州
群馬県

海洋性、地中海性気候
夏は暑く、冬は寒冷で湿度が高い

おススメスポット:
旧市街地区
ボッカチオの生家兼博物館
サンティ・ヤコボ・エ・フィリッポ教会

おススメスポット:
小幡城
楽山園
こんにゃくパーク

ご当地フード:
玉ねぎジャム
玉ねぎスープ

ご当地フード:
とどろく味噌
こんにゃく

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.comune.certaldo.fi.it
www.town.kanra.gunma.jp
www.scambiculturalicertaldo.it

By |7月 21st, 2020|ニュース|0 Comments

ミラノと大阪 二都市の多岐にわたる交流のすべて

姉妹都市提携は通常、二都市間の市民の交流を促進し、その生活の質を向上させることを目

的としています。そして、友好関係や意義深い活動を共にする、二つの異なる国の都市の関

係性を定義づける最良の手段と言えます。

大阪市とミラノ市は日本とイタリアにおいて、それぞれ、経済、産業、文化の観点から見て

大変重要な役割を担う都市です。

大阪市は4世紀の終わりごろに皇室の宮廷が置かれ、繁栄を極めました。日本の本州に位置

する大都市で大阪府の県庁所在地であるとともに、近隣の神戸市とともに、日本で二番目に

大きい都市圏を形成しています。大阪市はまさに、関西地方の最大の原動力となる都市であ

り、重要な鉄道、幹線道路の要衝都市です。また、イタリア人建築家レンゾ・ピアノ氏が設

計した国際空港もあり、空港全体が人工島に建設された日本の西の空の玄関として知られて

います。さらに大阪市には主要な大学、研究機関が多数あり、文化的な面から見てもとても

重要な都市です。

大阪市は江戸時代からすでに、日本の伝統的な食文化の中心地でもあり、現在ではミシュラ

ンの星を獲得した星付きレストランが80以上も存在しています。江戸時代には “天下の台

所” との別名を持ち、日本の食文化の首都と言っても過言ではなく、“回転すし” はまさに

この大阪で誕生しました。2025年には、大阪万博開催が予定されており、そのテーマは、

“Designing Future Society for our Lives” です。

1981年4月10日、昭和56年、日本とイタリア、両国の経済をけん引する二都市、大阪市とミ

ラノ市との間で姉妹都市盟約が批准されました。1974年にすでに、二都市の姉妹都市盟約

締結を推進する活動として、大阪出身の若い女性数人がミラノのヴィットーリオ・エマヌ

エーレ2世のガッレリアを歩きながら、ミラノ市民にうちわを配る様子と姉妹都市提携の仮

証明書のアップが映されたビデオが、イタリア国立ルーチェ・フィルムアーカイブに所蔵さ

れています。

一方、イタリア、ロンバルディア州の州都ミラノはイタリアの経済の中心地として歴史的に

もその地位を確立してきました。また近年では、金融の中心地としても機能しています。

ローマ帝国時代には、“メディオラルム” という名称を持ち、12世紀にはすでに自治都市と

して発展していました。

ミラノは第二次世界大戦で破壊されましたが、近代的な都市として再生を果たし、ファッ

ションと産業デザインの都として大きく成長してきました。文化的価値の高い数々の芸術的

遺産にも恵まれ、多数の公立、および私立大学も有するため、文化的観点から見ても、ミラ

ノはとても活気のある都市です。在ミラノ日本領事館が企画する活動の中心として、まさに

ミラノの各大学との連携により、数々のプロジェクトが生まれており、この取り組みのおか

げで、両都市の大学間の交流が維持され、大学同士の流動的な友好関係を促進していると言

えます。

1983年には、大阪国際ファッションフェスティバルの開催に際し、ミラノの著名なデザイ

ナー達が審査員として招聘され、また1989年のワールド・ファッションフェア ’89にもミラ

ノから多数の業界関係者が参加しました。

姉妹都市盟約締結を祝う10周年、15周年、25周年の記念式典の際に、両都市の代表団によ

る表敬訪問、展覧会、伝統芸能の催し等の様々なイベントが行われました。

2011年には30周年を記念し、ミラノにある日本食レストラン協会が主導し、ミラノ市民に

大阪の本当の味を提供するイベントを開催し、味覚における姉妹都市提携を提案。同年、大

阪では、イタリアの民間企業として初めて地図製作を行ったデ・アゴスティ―二社と共同

で、デ・アゴスティ―二家が所有する貴重なミラノ市、ロンバルディア州、日本の古地図の

復刻版の地図展が開催されました。

2015年に開催されたミラノ万博では、日本パビリオン館内で “ブオンジョルノ大阪” と題

されたパネル展示が行われました。ミラノと大阪、二つの姉妹都市の間で育まれた交流の歴

史、芸術文化の交流、二都市の代表団による表敬訪問の様子、姉妹都市提携している大阪市

立工芸高校とミラノのブレラ国立芸術高等学校の二校の交流の様子等が展示されました。

2016年には、姉妹都市盟約締結35周年を記念したイタリア音楽のコンサートが大阪市役所

にて行われました。同年10月には、大阪の市立小学校にて “ミラノ給食デー” が設けら

れ、給食のメニューにミラノカツレツ、ミラノ風リゾットが登場しました。また、ミラノの

日本愛好家であるアルベルト・モーロ氏による写真展 “ミラノ市民が見た大阪とミラノ”が

両市にて開催されました。

ミラノ、大阪の二都市間の外交関係を強化することを目的とした最新の企画事業は、ミラノ

の東洋学協会の構想によって始まった、“ミラノ・ジーニアス2019” です。これは、ミ

ラノ自治体と大阪イタリア文化会館が支援するプロジェクトで、アート、イノベーション、

カルチャーの交流を推奨し、イタリアと極東アジア間の文化交流と相互協力を推進すること

が目的です。

日本とイタリア両国の副首都として機能する二都市、ミラノ市と大阪市の姉妹都市関係を育

むキーワードは “活力、才能、革新” ということができそうです。

ミラノ  ー 大阪
1981年4月10日

ミラノ
大阪

ロンバルディア州
大阪府

おススメスポット:

スフォルツェスコ城

私邸博物館

ドゥオモ

おススメスポット:

大阪城

国立文楽劇場

海遊館

ご当地フード:

ミラノ風カツレツ

カッソーラ(豚とキャベツの煮込み)

ご当地フード:

しゃぶしゃぶ

お好み焼き

ミラノ
大阪

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.iicosaka.esteri.it
www.archivioluce.com

By |7月 7th, 2020|ニュース|0 Comments

陶土で形づくられた友情 ファエンツァ市と土岐市

街のアイデンティティはその街のモニュメント、通りや、広場、その街を訪れた人の旅行記、職人の伝統工芸によって、形づくられていきます。

ファエンツァ市と土岐市の場合は共通の特産品である陶磁器によってそのアイデンティティを確立してきました。

陶芸は大変長い歴史を持つことで知られ、その起源は太古の昔までさかのぼります。様々な道具の材料となるもので、芸術的表現の一つの手段ともなります。“陶器”を意味するイタリア語の ceramica はギリシャ語の kèramos に起源を持ち、“壺づくり職人の地” を意味しています。長い歴史の中で、陶磁器の生産は世界中の大部分の地域に普及し、影響を与えてきました。もちろん、日本とイタリアも例外ではありません。

イタリア国内で、陶芸がその街の伝統工芸として公認されている街は40以上にも上り、ファエンツァもそのうちの一つとして数えられています。

エミリア通りを中心に発展してきた魅力あふれる芸術の街、ファエンツァはラヴェンナ州に属し、アペニン山脈の始まりを背景に望む美しい街です。ファエンツァの街を特徴づけるものは言うまでもなく、製陶業です。“ファエンツァ” の名前そのものからもわかるように、この街の名前から由来した “ faïence ” (ファイアンス焼き=マヨルカ焼き)という言葉は広くヨーロッパ中で使われています。ファエンツァがあるロマーニャ地方では紀元前1世紀に陶器を製造する工場が存在していたことがわかっており、ファエンツァの街がひらけたラモーネ川のほとりでは良質の粘土が産出されることで知られています。

ファエンツァの製陶業はルネサンス期に絶頂期を迎え、ファエンツァの陶工たちはイストリアート(説話画)と呼ばれる新しく、優雅な装飾スタイルを独占的に発展させていきました。その後、1800年代にファエンツァの製陶業は一時衰退し、危機をむかえますが、1900年代の初頭に再興の動きが高まり、大規模な陶磁器の展覧会が開催されるとともに、1908年にファエンツァ出身の陶芸史家ガエターノ・バッラルディーニ氏によって MIC(国際陶磁器博物館)が設立されました。この博物館では世界中から集められた様々な時代の陶器6000点が展示されています。極東アジア地域の陶磁器に特化したコーナーもあり、主要な陶磁器の生産地を代表する約400点の工芸品が展示されています。また、2000年には、MIC はユネスコより “平和文化に対する証人モニュメント” の一つとして認定されており、世界の陶芸に捧げられた貴重な博物館です。現在もファエンツァの街には60を超える陶芸店が軒を連ねており、陶工やアーティストたちがファエンツァ・ブランドの陶磁器を作り続けています。

一方、日本で最初に発見された陶器の起源は新石器時代までさかのぼり、水や食料を貯蔵するための容器でした。岐阜県にある土岐市は、日本でも有数の陶磁器の主要生産地の一つとして知られています。岐阜県南部を指す名称の “美濃” 焼きの街として、土岐周辺では、良質な粘土が産出され、古くから陶磁器の生産がさかんでした。土岐市の郊外では山の斜面に掘って作られた穴窯と呼ばれる古代の窯が多数あります。これらの窯は岐阜県内に広く普及しており、すでに古墳時代(紀元前7世紀)の末期には、この穴窯の中で、須恵器と呼ばれる陶器が焼かれていました。1300年以上前に始まった土岐市での製陶業は現在も住民の生活の一部であり、毎年5月3、4、5日には日本三大陶器祭りの一つである “美濃焼祭り” が開催されます。また、1986年から土岐市を含む美濃地方で開催されている国際美濃陶磁器フェスティバルは、世界中の製陶産業の発展と成長を推進するためのイベントです。

そして、1979年(昭和54年)の10月23日に土岐市とファエンツァ市は、陶芸文化とその歴史を共有する為、姉妹都市提携を結びました。まるで遠距離を隔てた結婚のような二都市の友好関係は、職人の卓越した技と火の力を利用して貴重な陶磁器に姿を変える陶土をその絆の印として、毎年更新され続けています。 

2018年4月16日、ファエンツァ市にてジョバンニ・マルペッツィ市長と土岐市の加藤靖也市長の間で、この姉妹都市盟約の更新が行われました。記念すべきこの式典は、“陶芸”という共通言語を介して長年に渡り育まれた友好関係の証として、陶器でできた羊皮紙に両市長が署名し、印象深い式典となりました。

両都市を隔てる地理的な距離にもかかわらず、これまで多くのプロジェクトが実施されてきました。2004年には土岐市とファエンツァ市の文化交流をテーマにした写真集が出版されたり、土岐市ではイタリア式庭園が建設されました。また、ファエンツァで開催された陶磁器のイベントには土岐市から陶芸家たちが招待されました。2019年には、姉妹都市提携40周年を記念してファエンツァ市にて日本人陶芸家の展覧会が開催され、好評を博しました。

この二都市を結ぶ友好協定は、人の手によって作られた手工芸品の文化がその土台となっています。また、この友好関係を支えるたくさんの人の手と支援者が存在していることは言うまでもありません。その中でも、両都市の交流を25年間支え続けてきた、ファエンツァ在住の陶芸家TOMO HIRAI 氏は自らもファエンツァ式ルネサンスの影響を受けた数々の秀逸な作品を発表しています。

また、イタリアサッカーリーグ・セリエAで活躍した中田英寿氏も現役を引退した後、日本の伝統工芸産業の促進に尽力しており、人の手によって作られた工芸品が人々の生活に豊かさをもたらすことを確信し、ファエンツァのMICと共同で、美濃地方で開催された国際的な陶芸コンクールの総合プロデュースに携わっています。

ファエンツァ ー 土岐
1979年10月23日

ファエンツァ
土岐

エミリア・ロマーニャ州
岐阜県

ラモーネ川
土岐川

地中海性気候
寒冷だが温和

おすすめスポット
MIC(国際陶磁器博物館)
二バッロのパリオのイベント
おすすめスポット
セラミックパーク美濃
織部の里公園

ご当地フード
エシャロット・ラグーのクルズル

ご当地フード
鬼まんじゅう

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.micfaenza.org
www.gemellaggifaenza.it
www.jappi.jp
www.tooki-minoyaki.jp
www.toki-kankou.jp
www.city.toki.lg.jp

By |6月 26th, 2020|ニュース|0 Comments

フィレンツェと岐阜 平和を紡ぐ二都市の友情ストーリー

“持続する世界平和を望むことは、人類の願いであり、我々が調印した盟約の基本原則のう

ちの一つです”
1978年2月8日に調印されたフィレンツェ市と岐阜市の間でかわされた姉妹都市盟約の最初

の条項にうたわれています。

フィレンツェ市はルネッサンス発祥の地として知られ、まるで野外の博物館のような歴史的

市街地区は、街全体が世界遺産に登録されています。一方、岐阜市は戦国時代の将軍、織田

信長の時代に、いわば日本のルネッサンスが起こった地として知られ、信長によって岐阜を

中心に日本の統一が推し進められました。

フィレンツェと岐阜には多くの共通点があります。歴史的に類似していることのほかに、市

の規模と地理的な特徴がよく類似しています。さらに、両都市ともに繊維産業の中心地で

す。

フィレンツェは中世の時代にすでに、文化、経済、行政上の中心地として重要な都市でし

た。イタリア全土において、歴史上最も豊かな都市の一つであり、1865年から1871年のイ

タリア統一戦争の期間中は首都として機能していました。一方、岐阜も、日本の歴史上、大

変象徴的な都市ということができます。戦国時代には、東西交流の要所だったことを指し、

“美濃(岐阜の旧名)を制する者は天下を制す” と言われたほどです。1600年に徳川幕府の

始まりを決めた天下分け目の合戦 “関ヶ原の合戦” の場所は岐阜県内にあります。

さらに、フィレンツェ市、岐阜市、ともに重要な二つの川のほとりに位置しています。フィ

レンツェ市のアルノ川と岐阜市の長良川です。

両都市間での文化交流、業務提携はこれまで数多く行われてきました。その中でも、フィレ

ンツェで最も有名な服飾系スクール、ポリモーダファッションモードスクールと、岐阜女子

短期大学は提携校でもあり、交流と相互研究を深めています。

また、1945年に米軍による焼夷弾の爆撃で岐阜市が焼け野原になった、岐阜空襲の犠牲者

への鎮魂と平和への祈りを込め、毎年7月9日に、フィレンツェでは主要な教会の鐘が鳴ら

され、平和の旗が掲揚される、“平和の鐘” 事業が行われています。フィレンツェには、第

二次世界大戦の終戦を記念して1944年8月11日に鳴らされたマルティネッラの鐘があります

が、この鐘は毎年7月9日に岐阜市への友情の証として5分間鳴らされ、ヴェッキオ宮殿のア

ルノルフォの塔に平和の旗が掲げられるのです。

2008年10月20日の姉妹都市盟約締結30周年記念式典はフィレンツェのヴェッキオ宮殿、

200人広間にて開催され、記念の印として、カヴォナーナ広場に桜の木が植樹されました。

このカヴォナーナ広場には2002年から、岐阜市贈呈の “鵜飼い像” が設置されています

が、もともとはこの像は1983年岐阜市から贈呈された当初は、ヴィッラマンニャ通りのド

ン・ジュリオ・ファチベー二中学校の中庭に設置されていました。この鵜飼い像は日本の彫

刻家、館野弘青氏による作品で、岐阜県で1300年間脈々と続いている、伝統漁法 “鵜飼い”

(細長い小舟に乗り、鵜を利用し魚を捕る漁法)の様子を表現している像です。

 

 

両都市間では、芸術家同氏の交流、または文化、観光面においての交流を共同で推進してい

く相互協力の意思を数回に渡り、宣言しています。学生たちの交換留学、二都市間の経済お

よび、産業界の組織同士の交流の機会を常に奨励していくことで合意してきました。

2018年10月の姉妹都市盟約締結40周年記念の際には、フィレンツェ市長直々に岐阜市長へ

と一通の手紙が送られ、二都市間の友好関係の重要性を強調し、新しい交流を推進していく

意思が表明されました。この前年の2017年には、すでにフィレンツェ市の皮革製品製造企

業数社が岐阜市を訪れ、フィレンツェの伝統工芸である革製品製造のクラフトマンシップの

真髄を岐阜にて披露し、メイド・イン・フィレンツェ製品のプロモーションも行いました。

また、同年、岐阜市歴史博物館にて開催された特別展 “レオナルド×ミケランジェロ展” 

は好評を博し、フィレンツェのヴェッキオ宮殿やミケランジェロの生家を博物館にしたカー

サ・ブオナロッティ博物館から多数の作品が海を越えて貸し出されました。

 

岐阜は日本の中でも繊維産業がさかんなことで知られており、2019年には岐阜県の繊維企

業4社と地元の商工会議所が共同で “岐阜シャツプロジェクト” を立ち上げました。この

プロジェクトの一環として、トスカーナ州(フィレンツェがある州)の歴史的なシャツメー

カーと共同で、美濃和紙を70パーセント以上含む生地で作ったシャツを企画販売しまし

た。

 

この他、芸術的な側面からも両都市間の交流はさかんです。両国のアーティストたちによる

自国の伝統文化を紹介する劇場公演はこれまで数多く行われてきました。中でもトスカーナ

州の伝統文化を再生する目的で結成された劇団 “アミ―チ・ディ・キアンティ” はフィレ

ンツェの伝統民謡を日本語で歌うという試みの公演を岐阜市で開催しました。

 

日伊両国の伝統文化をお互いに理解し、尊重し合い、未来に向けて相互交流し続けていこう

という強い願いの証が、両都市の友好の歴史の中には、数多く見られ、今後もその努力は続

けられていくでしょう。

 

フィレンツェ ー 岐阜
1978年2月8日

フィレンツェ
岐阜

トスカーナ州
岐阜県

ルネッサンス発祥の地
鵜飼いの街

地中海性気候
温暖な気候

      おススメスポット:
歴史的市街地区
ウッフィッツィ美術館
ベッキオ橋
花のサンタ・マリアデルフィオーレ大聖堂

    おススメスポット:
岐阜城
正法寺の岐阜大仏

    ご当地フード:
パッパアルポモドーロ

  ご当地フード:
鮎菓子

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.kankou-gifu.jp
www.city.gifu.lg.jp
www.ccn.aitaine.jp
www.toscanapromozione.it
www.gliamicidichianti.it

 

By |6月 24th, 2020|ニュース|0 Comments

サンレモと熱海 自然によって結ばれた姉妹都市盟約

サンレモ市の日本庭園の美しさと熱海が誇る美しい熱海桜の景観は目には見えない糸で結ば

れています。

“花、音楽、歌” と聞いて真っ先に思い浮かぶ街の名前は?という質問に、皆さんはどの街

を思い浮かべますか?日本にはその答えに相当する街があります。イタリアでは“美しい花

と歌の街” と言えば、リグーリア州、花のリヴィエラ海岸の街、サンレモがあります。サ

ンレモは温暖な気候に恵まれ、花と音楽への深い情熱を誇る街です。また、バラ、カーネー

ション、観葉植物の見事な栽培が有名で、最高品質を誇る洗練された花づくりや緑の栽培に

は定評があり、この地域の最も重要な産業の一つとなっています。

サンレモにて年一回開催される、イタリア歌謡曲のフェスティバル、“サンレモ音楽祭”は

2020年で70周年を迎え、イタリア国内でも大変有名なメディア・イベントです。その知名

度はもはやイタリアだけにとどまらず、ヨーロッパ中、地中海全域でその名を知られるよう

になりました。サンレモ音楽祭グランプリ受賞者に贈られるライオン像は、イタリア・ポッ

プミュージック界における最も名誉ある賞であり、1958年にグランプリを受賞した、ドメ

ニコ・モドゥンニョがジョニー・ドレッリとペアで歌った “Nel Blu dipinto di Blu” (“ヴォ

ラーレ” としてのほうが有名)は、いまだに絶大な人気を誇り、イタリア人だけでなく世

界中の人に愛されている名曲です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、サンレモから10,000㎞離れた日本の熱海市は、伊豆半島の東側の付け根に位置し、相

模湾に面しています。東京からは南西に100㎞ほどの距離にあり、美しい海岸線と温泉で有

名な街です。“熱海” の名前は文字通り、“熱い海” を意味し、海から熱い湯が湧き出して

いたことから、古くから湯治の地として有名で、何世紀にもわたって “将軍御用達の湯”と

して将軍家に愛用されてきました。また、療養地として皇室の御用邸が建てられていたこと

もあるほどです。徳川幕府初代将軍、徳川家康は、熱海をこよなく愛し、これによって熱海

は日本の名湯治場としてその名を知られるようになりました。その後、昭和に入り、名だた

る日本文学界の文豪たちに愛された熱海は、川端康成、尾崎紅葉らの小説の舞台にもなりま

した。また、谷崎潤一郎はこの街で晩年を過ごし、三島由紀夫が足しげく通った喫茶店など

もいまだに現役です。

熱海市の市章は太平洋の色のブルーの背景が印象的で、市の花 “梅” の中に太平洋の波を

デザインし、その波の内側に熱海温泉を表したものです。また、熱海の顔ともいえる “熱

海サンビーチ” は青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル群、ヤシの並木通り、など外国の高

級リゾートを彷彿とさせるビーチで、サンレモのビーチとよく似ています。熱海は太平洋側

に面する港を持つため、漁業も主たる産業のひとつですが、漁業と並び、生花の栽培でも有

名な点はサンレモと同じです。熱海とサンレモ、この二つの街は遠く離れていますが、経済

面、文化面、地理的な観点から見て多くの類似点を持っています。

温暖な気候、優美な海岸線、花の栽培、そして音楽。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1975年、当時の熱海観光局次長がサンレモ市を訪問した際、両市がとても良く似ているこ

とに驚いたそうです。確かに、一見すると熱海の景観と花のリヴィエラ海岸のパノラマには

多くの類似した特徴が見られます。1976年11月、二都市の代表者の間で、姉妹都市盟約が

批准されました。この年を皮切りに両都市間で文化的交流が始まり、半ば当然のように始

まったこの友好関係は年を重ねるごとにその絆を深めてきました。

二つの都市は海とは切っても切れない関係を持ち、熱海市は太平洋に面し、一方、サンレモ

市はリグーリア海に面しています。

“海と花” にちなんだこの二つの街の深い友情関係の証として、熱海市にはサンレモ公園が

造園されました。この公園は南国の雰囲気漂うイタリア式庭園で、公園の西側の海沿いには

埠頭があり、そこから “サンレモ” と名付けられた遊覧船が運行しています。この小さな

遊覧船はまさに、サンレモ市への友情の証として存在し、船首にはサンレモ市の紋章も掲げ

られています。船付き場の近くにはイタリアの雰囲気を満喫できる “サンレモカフェ” も

あります。遊覧船内には海中展望室があり、乗船した途端、30分間の相模湾海中探検の旅

を楽しめます。海上からながめる熱海は、イタリアの姉妹都市であるサンレモ市の景観によ

く似ていることが更によくわかります。 

一方、サンレモ市にも二都市の友情の証が存在しています。かつて、あるスイス人実業家が

所有し、その後サンレモ市によって引き継がれたヴィッラ・オルモンド公園内では日本式庭

園を鑑賞することができ、この庭園は熱海市との友好関係に捧げられ造園されたものです。

濃い緑色の芝生のじゅうたんがしきつめられた枯山水式の日本庭園の中には、想像力を掻き

立てる岩や石があちこちに配置されており、イタリア原産ではない珍しい植物等も植えら

れ、典型的な東洋の雰囲気を創り出している庭園です。庭園内にある禅の哲学にインスピ

レーションを得て作られたコーナーは特に印象的です。

生花栽培に対する両都市の情熱に加えて、どちらの都市にも共通するのが音楽祭の存在で、

どちらの音楽祭も互いに長い歴史を誇ります。1977年にはイタリア・ポップミュージック

の祭典、サンレモ音楽祭にて、日本伝統芸能の和太鼓の演奏が催されたり、1982年には歌

手の田原俊彦さんがスペシャルゲストとして招待され、日本でも大ヒットした “君に薔薇

薔薇という感じ”(イタリア名・薔薇を君に)を披露しました。当時、熱海にて開催されて

いた “熱海サンレモ音楽祭” でも同様にイタリアからミュージシャンが参加して演奏を披

露しました。2016年には、姉妹都市盟約締結40周年を記念し、サンレモ市のベッレヴュー

エ宮殿にて記念式典が行われ、オペラコンサート等が催されました。この式典で、両都市の

友好関係が改めて再確認され、未来に向けて文化的および商業的な関係を今後も維持し続

け、より良いものにしていくことが両都市間にて承認されました。また、二都市間において

若者の交流を促進していくことを約束し、日伊両国間にとっても実りある将来をもたらせる

よう努力を重ねていくことが決議されました。

サンレモ-熱海
1976年11月10日

サンレモ

熱海

リグーリア州

静岡県

温暖な気候

温暖な気候

音楽と花の街

温泉と花の街

おススメスポット:
ヴィッラ・オルモンド
コルソ・マッテオッティ
コルソ・インペラトリーチェ

おススメスポット:
熱海城
温泉

ご当地フード:
サルデナイラ

ご当地フード:
海の

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.visitsanremo.it
www.comunedisanremo.it
www.city.atami.lg.jp
www.ataminews.gr.jp
www.s-m-atami.co.jp

By |6月 9th, 2020|ニュース|0 Comments

コモと十日町 絹糸が紡いだ姉妹都市盟約

願い事が叶う時は、数分間しか叶わないものもあれば永遠に叶ってしまう時もあります。実 現しそうな願い事、反面、まったく実現しそうのない願い事だって存在します。イタリアの 作家、エルリ・デ・ルーカの有名な言葉が語るように、“子供たちの願い事は未来を形づく る”は、我々も知るところです。エルリが言った言葉の様に、ある一人の少女の願い事が発 端となり、姉妹都市協定締結の実現につながったという例があります。

1975年2月8日、当時9歳だったコモ市の少女ラウラ・クレリーチが日本の新潟県十日町市の 市長に一通の手紙を書きました。その当時すでに、十日町市とコモ市の間では商業上の取り 引きが数件成立していました。

「わたしは十日町市に行ってみたいと心から願っています。これまで本で読んできた日本の 素晴らしい物事を自分の目で見てみたいです。それから、私と同い年の日本の女の子たちと 出会い、日本の女の子たちがどんなことをして遊ぶのか、どんな風に暮らしているのかをこ の目で見てみたいのです」

十日町は1954年に発足し、市の紋章には、この街が誇る美しい自然環境と調和しながら発 展する都市の願いが込められています。

十日町市は冬の時季の豪雪と美味しいコメ作りが全国的に有名で、毎年2月には十日町雪ま つりが開催されます。全国屈指の豪雪地帯であるこの地域は織物業にとって理想的な環境を 提供し、卓越した絹織物業の伝統と、養蚕業は十日町の地場産業として地域経済の中核を成 す存在となりました。そして毎年5月3日には春の一大イベントとして “十日町きものまつ り” が開催されています。

そもそもアジアで発祥した、貴重で優美な絹織物は、西暦1000年頃アラブ人の手により、 まず最初にシチリア島にもたらされたことがわかっています。その後イタリアの他の地域に 広まったと言われており、当時ミラノを統治していたミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの 甥にあたるガレアッツァ・マリア・スフォルツァは絹織物産業を推奨し、領内の地主達に蚕 の餌となる桑の木を5本ずつ領地内に植えるよう命じました。こうして養蚕業、絹織物業が さかんになった北イタリアロンバルディア州北西部の街コモでは、1500年代から1800年代 半ばまでで、ラリオ産(コモ湖の別名をラリオと言う)絹織物業に従事する人の数が45000 人を数えるほどまでに発展しました。コモで有名なのは絹織物産業だけではありません。イ タリア文学の代表作、マンツォーニが著した「いいなずけ」の舞台としても知られていま す。また、乾電池の発明者として有名になり、化学者、物理学者としても活躍したヴォルタ はメタンガスやライターをも、この地コモで発明しました。

絹織物に捧ぐ愛と情熱を仲介にして、日本とイタリアの距離は急速に近づき、コモ市と十日 町市は1975年2月27日、1年間の準備期間、両都市の使節団の訪問を経てめでたく姉妹都市 盟約を批准しました。当時の二人の市長、アントニオ・スパッリーノ氏と春日由三(かすが よしかず)氏がコモ市のツェルネッツィ宮殿の評議会室にて調印しました。式典はこの姉妹 都市盟約締結の発端となった、コモの少女ラウラの手紙を読み上げ、開幕となりました。そ の後長年にわたり、多くの代表団が両都市への訪問を重ね、経済、商業、文化、教育、芸 術、スポーツなどあらゆる方面において親交を深め、2都市の絆は更に強化されていきまし た。

1989年には、コモ市長レンツォ・ピン二氏がコモ市の文化交流団体 “ファミリア・コマス カ協会” に、十日町市との友好親善活動の推進と活性化に関する業務を委託しました。 1955年には、コモ市は姉妹都市締結20周年を記念し、“ルチア”(マンツォーニのいいなず けに出てくる女主人公の名前)と名前の付いた小さな木造船(コモ湖の名物として知られ る)を十日町に寄贈しました。“ルチア”は十日町駅前に設置され、十日町市民に見守られ続 けています。2000年にはその返礼として、十日町からコモ湖畔のソマイーニ広場に、日本 人彫刻家藤巻秀正氏による“友愛”の記念像が寄贈されました。

この像はコモの少女、ラウラとペンパルで友情を育んだ、十日町の少女、木内聡子さんの二 人の少女がモデルになっています。二人が着物の布で戯れて遊んでいる様子を描いており、 姉妹都市盟約締結の発端となり、育まれ続けた小さくも絆の強い友情を象徴しているもので す。また、コモ市のサン・ジョバンニ駅に通じる階段のふもとに “十日町通り” が存在し ていることは多くの人が知りません。

2004年からはコモ市自治体は、前述したファミリア・コマスカ教会と共に、国際文化交流 の一環として学生を両都市に送る交換留学事業の推進を開始、日本文化に興味を持つ学生を 対象とし、両都市間の友好関係から生まれる絆を深めることを目的としています。さらに、 同年、十日町にて開催された第10回石彫シンポジウムの際に、コモ出身の二人のアーティ ストであるブルーノ・ルッツァ―二氏とマッシモ・クレリーチ氏が招待され、二つの作品を 製作しました。ブルーノ氏の作品は “絹に結ばれた姉妹都市” というタイトルで、十日町 […]

By |6月 3rd, 2020|ニュース|0 Comments

大海を隔てて歴史を刻む二都市の友情物語 チヴィタヴェッキアと石巻

文明発展の歴史にはしばしば、海が存在していたか否かが大きく関係しています。大陸と海の関係は、経済、商業活動に大きく貢献するだけでなく、国民の心理にも著しく作用します。果てしなく広がる大海原を日々見て過ごしている国民は当然、冒険や発見への意欲も増すはずです。

チヴィタヴェッキア市と石巻市の間で育まれた友情物語でも海は重要な役割を果たし、何世紀にも渡り、二都市は海に沈む錨の様にゆるぎない友情を築いてきました。

太平洋に面した石巻市、そしてティレニア海に臨むチヴィタヴェッキア市。

1615年に伊達藩の藩士、支倉常長が率いる使節団が出発した街が石巻市で、到着した街がイタリアのチヴィタヴェッキアでした。藩主伊達政宗の命により、1613年に月浦(つきのうら)を出航したガレオン船は常長率いる慶長遣欧使節団をのせ、2年後にチヴィタヴェッキア港に到着し、そこからローマに趣き、当時のローマ教皇パウロ5世に謁見しました。この使節団が派遣された目的は、経済的、商業的な目的だけではなく、日本からメキシコへの新しいルートを開通することを法王に請願するものでした。また、宗教的な目的としては、1597年2月5日に長崎で起こった26人のカトリック信者(西洋人宣教師、日本人カトリック信者を含む)が豊臣秀吉の命により磔の刑にて処刑されたという事件を弔うという目的もありました。

支倉常長は洗礼名をフェリペ・フランシスコ・ハセクラ(改宗後にマドリードにて取得した)といい、同年10月18日にチヴィタヴェッキアに到着し、市民に暖かく迎えられ、使節団はこの街に2週間滞在しました。

歴史に残る2文明の壮大な出会いを記念し、1971年両都市間に、2都市の過去、現在、未来を結ぶ姉妹都市協定が樹立しました。

石巻市は1933年に設立され、慶長遣欧使節団が出航した月浦の近くに位置しています。世界3大漁場のうちの一つに数えられる “三陸・金華山沖漁場” を有する港が石巻漁港です。

両都市間では、文化交流、代表団の訪問、交換留学など、絶え間ない交流が続いています。

チヴィタヴェッキアを訪問する際、何よりも魅了されるのは、やはり、1991年にリヴォルノ門近くのマルコーニ通りに創設された支倉常長の彫像と、1872年建造の日本人カトリック殉教者26人に捧げられた日本聖殉教者教会でしょう。この教会には、1951年から1957年にかけて日本人画家の長谷川路可画伯により作成されたフレスコ画があり、これは画伯からチヴィタヴェッキア市に捧げられたものです。教会内の後陣の両脇部分には長谷川画伯が街の守護聖人サンタ・フェルミナに捧げたフレスコ画、支倉常長に敬意を表し作成されたフレスコ画等が描かれています。また、この日本聖殉教者教会は、“小さき兄弟会” という修道会により管理されており、長谷川画伯作成の、ヨーロッパで唯一の着物を着た東洋系の顔立ちをした美しい聖母マリア様のフレスコ画が描かれていることでも有名です。

さらに、慶長遣欧使節団のイタリアでの足跡は、ローマのクィリナーレ宮殿のコラッツィエリの間の壁画にも、この使節団の法王謁見の様子が描かれています。

イタリアから何千キロも離れた東の果て、現在の宮城県石巻市、太平洋を見下ろす丘のふもとから、“サン・ファン・バウティスタ号” はヨーロッパに向けて処女航海に出発しました。この丘の上には展望台が設けられ、常長の彫像とともに、彼が辿った渡航ルート、記念碑が築かれ、イタリア風の庭園が広がっています。

2011年3月11日に発生した東日本大震災で三陸沖を襲った津波の猛威に曝された石巻市が復興に向けての取り組みを開始した際も、二都市の友情はそのはるかな距離をものともせず、その力を発揮しました。ただちに、チヴィタヴェッキア市に石巻支援委員会が組織され、石巻復興を援助する資金を集めるための一連のイベントが開催されました。

同年10月、姉妹都市締結40周年を記念して、駐イタリア全権大使の河野雅治大使が、チヴィタヴェッキア市を訪問、世代を超えて受け継がれてきた両都市間の友情の証を確認し合いました。

また、2015年10月18日には、サムライ支倉常長率いる使節団のチヴィタヴェッキア入港400周年を記念して、チヴィタヴェッキアの街の中心部にて、当時の使節団が街に入場する様子を再現したイベントが行われました。 

毎年10月にはチヴィタヴェッキアでは日本文化のフェスティバルが開催され、文化交流、代表団による両都市訪問が継続的に行われています。

一見、はるか遠く離れた二つの都市、チヴィタヴェッキアと石巻。長い歴史の途上、文化的、経済的に幾度か強い接点を持ったこの二つの都市は、2都市を隔てる大海原からもたらされた絶妙なバランス感覚を保ちながら、未来への友好関係を育む新世代に刺激を与え、今日も生き生きとした友情を育んでいます。

チヴィタヴェッキア ー 石巻
 1971年 10月

チヴィタヴェッキア
石巻

ラツィオ州
宮城県

温暖な気候
温暖な気候

ローマ帝国時代からの港湾都市
三陸金華山漁場の主要港

おススメスポット:

 ミケランジェロ要塞

トライヤヌス浴場跡

日本聖殉教者教会

おススメスポット:

サン・ファン・バウティスタパーク

石ノ森萬画館

金華山

ご当地フード:

  チヴィタヴェッキア風魚介スープ

ご当地フード:

石巻焼きそば

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 27th, 2020|ニュース|0 Comments

フィレンツェ・京都 未来を構築し結びつく二つの古都

文化と平和の融合を育む遠く離れた二つの都市フィレンツェと京都。フィレンツェは、レオ

ナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、世界的に有名なルネッサンスの主人公たちを

生んだ街です。一方、京都は千年以上に渡って、日本の文化と精神性をかたくなに守ってき

た華やかな街です。堅固な石でできた歴史を物語る古い街並みと、大理石からなる教会の

街、フィレンツェ。半面、京都の町はいにしえからの貴重な木造建築の寺社仏閣に溢れてい

ます。

この両都市はいずれも、かつて、国を代表する文明の首都として栄えましたが、地理的には

あまりにも離れています。

京都は、794年から1868年の間、奈良から遷都した後、首都として栄えました。一方、フィ

レンツェは1865年2月から1871年6月までの6年間、イタリア王国の首都としてその栄華を

極めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都市と自然の関係性について語るならば、フィレンツェに関しては自然に対する支配の結果

と言うことができますし、京都に関しては自然との神秘的な融合から成り立った都市という

ことができるでしょう。

気候の観点から見ても、両都市は全く正反対の特徴を持っています。地中海性気候に属する

フィレンツェとモンスーン気候帯に属する京都。どちらもユネスコ世界遺産に登録されてお

り、芸術と食文化への愛でつながる、他に類を見ない素晴らしい文化を持つ二都市です。

昭和34年(1959年)に在日イタリア大使が京都市長を表敬訪問し、フィレンツェ市との姉

妹都市提携調印の可能性を打診する会談の機会を持ちました。同年、京都市長がフィレン

ツェを訪れ、その比類のない街の美しさに感銘を受けました。

1963年(昭和38年)京都市議会はフィレンツェとの姉妹都市提携案を承認し、同年9月22

日、調印が実現し、めでたく日伊二国間の文化と歴史を結ぶ、記念すべき橋が完成したので

す。

フィレンツェはイタリアの都市の中でも、日本人に最も愛されている都市であり、同時に京

都もイタリア人に最も愛されている日本の都市です。

トスカーナ州の州都であるフィレンツェの当時の市長、ジョルジョ・ラ・ピーラ氏は、この

盟約締結を強く望み、前任だった臨時市長レッロ・レゴーリオ氏と京都大学教授の野上奏一氏の間

で仮調印されていたものを正式に、ジョルジョ氏が署名し、盟約は締結されました。当時の京都

大学教授、野上奏一氏はイタリア文学、イタリア言語学の教授でもあり、フィレンツェ出身の文豪

ダンテ研究の日本における第一人者としても有名でした。この盟約

調印はフィレンツェにおける、地中海諸国、ヨーロッパ兼以外の国との間に締結された初めての

姉妹都市盟約の調印となりました。

1968年にはフィレンツェのガヴィナ―ナ地区に「Via Kyoto」(京都通り)と命名された通

りが誕生しました。

両都市間では、観光業、ファッション、伝統工芸、テクノロジー開発、など様々な分野で交

流、コラボレーションが活発に行われています。

1998年には、京都の高台寺専属の造園家、北山安夫氏が手掛けた日本庭園が、フィレン

ツェのミケランジェロ広場内にあるバラ園の中に寄贈されました。この日本庭園は松籟庭園

と名付けられ、漢字は違いますが、”松籟(風になびいて松の葉が擦れる音を現す言葉)” 

と ”将来” をかけ合わせた二つの意味を持つ言葉が使われています。また、古来、日本人

は松の葉が風で擦れる音を「ショウ、ショウ」という音で表していました。そして、松はこ

の庭園で最も数の多い樹であることからこの名が採用されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005年には、姉妹都市提携40周年を記念して、フィレンツェにて様々なイベントが開催さ

れました。中でも、ガビネット・ヴィスー会場で催された、巨匠フォスコ・マライ―二

(フィレンツェ生まれの写真家、東洋学者)による “フィレンツェ、京都 対比される二

つの街” と題された写真展は大変な好評を博しました。

また、フィレンツェが誇る世界最古の薬局と言われ、ドメニコ派修道院の僧侶による製薬活

動に起源を持つ1221年創業のサンタ・マリア・ノベッラ薬局がこの機会を記念し、“京都の

香水” を発表しました。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は現在、民営化されており、京

都や日本国内の様々な都市にも直営店を展開しています。この記念すべき香水はフィレン

ツェの街のシンボルである百合と同じとして称されるアイリスの花束の香りを基調にし、日

本の花の代表ともいえる官能的な蓮の花の香りをミックスした両都市の融合を象徴する特別

な香水でした。

2006年には、フィレンツェの中央市場と京都の錦市場との間に友好協定が調印され、両都

市の誇る食文化やワイン産業の促進を強化し、さらに豊かにするため、相互的に取り組むこ

とが決定されました。

両都市の姉妹都市提携記念日は10周年ごとに華々しく祝賀されることが決まり、50周年を

迎えた2015年はヴェッキオ宮殿の五百人広間にて、フィレンツェ市長のダリオ・ナルデッ

ラ氏と京都市長の門川大作氏により、将来50年先の友好関係をも祈願し、協定が更新され

ました。

我々誰もが虜にされてしまう、甲乙つけがたいこの二つの華麗な文化都市、フィレンツェと

京都。この二都市間で、我々の心を奪うのは、ボッティチェッリの描いたヴィーナスと戯れ

るはかなく咲き誇る桜の花や、天才レオナルド・ダ・ヴィンチさえも仰天する金閣寺、幾重

にも連なる美しい木造の寺社仏閣群と総大理石でできたサンタ・マリア・デル・フィオーレ

大聖堂の洗礼堂などです。

フィレンツェでは華々しい美しさが私たちを悩ましく圧倒し、半面、京都ではその美しさを

寺の壁の向こう、竹の森の中、禅の庭の岩、哲学の道で、発見するのです。

京都のサッカーチーム、京都サンガ(前:京都パープルサンガ)のユニフォームにはフィレ

ンツェの街のシンボルカラーである紫が使用されています。

こうしてたくさんの対話を経て、強い絆を育んだ二都市の物語は今後も末永く続いていくこ

とでしょう。

フィレンツェー京都
1965年9月22日

フィレンツェ
京都

トスカーナ州
京都府

地中海性気候
モンスーン気候

百合の街
寺社仏閣の街

ユネスコ世界遺産
ユネスコ世界遺産

見るべきスポット
歴史的市街地区
ウッフィツィ美術館
ヴェッキオ橋
サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂

見るべきスポット
伏見稲荷大社
金閣寺
嵐山
錦市場

ご当地フード:
パッパ・アル・ポモドーロ
ご当地フード:
ニシンそば

執筆  Floriana Maci 

翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 20th, 2020|ニュース|0 Comments