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陶土で形づくられた友情 ファエンツァ市と土岐市

街のアイデンティティはその街のモニュメント、通りや、広場、その街を訪れた人の旅行記、職人の伝統工芸によって、形づくられていきます。

ファエンツァ市と土岐市の場合は共通の特産品である陶磁器によってそのアイデンティティを確立してきました。

陶芸は大変長い歴史を持つことで知られ、その起源は太古の昔までさかのぼります。様々な道具の材料となるもので、芸術的表現の一つの手段ともなります。“陶器”を意味するイタリア語の ceramica はギリシャ語の kèramos に起源を持ち、“壺づくり職人の地” を意味しています。長い歴史の中で、陶磁器の生産は世界中の大部分の地域に普及し、影響を与えてきました。もちろん、日本とイタリアも例外ではありません。

イタリア国内で、陶芸がその街の伝統工芸として公認されている街は40以上にも上り、ファエンツァもそのうちの一つとして数えられています。

エミリア通りを中心に発展してきた魅力あふれる芸術の街、ファエンツァはラヴェンナ州に属し、アペニン山脈の始まりを背景に望む美しい街です。ファエンツァの街を特徴づけるものは言うまでもなく、製陶業です。“ファエンツァ” の名前そのものからもわかるように、この街の名前から由来した “ faïence ” (ファイアンス焼き=マヨルカ焼き)という言葉は広くヨーロッパ中で使われています。ファエンツァがあるロマーニャ地方では紀元前1世紀に陶器を製造する工場が存在していたことがわかっており、ファエンツァの街がひらけたラモーネ川のほとりでは良質の粘土が産出されることで知られています。

ファエンツァの製陶業はルネサンス期に絶頂期を迎え、ファエンツァの陶工たちはイストリアート(説話画)と呼ばれる新しく、優雅な装飾スタイルを独占的に発展させていきました。その後、1800年代にファエンツァの製陶業は一時衰退し、危機をむかえますが、1900年代の初頭に再興の動きが高まり、大規模な陶磁器の展覧会が開催されるとともに、1908年にファエンツァ出身の陶芸史家ガエターノ・バッラルディーニ氏によって MIC(国際陶磁器博物館)が設立されました。この博物館では世界中から集められた様々な時代の陶器6000点が展示されています。極東アジア地域の陶磁器に特化したコーナーもあり、主要な陶磁器の生産地を代表する約400点の工芸品が展示されています。また、2000年には、MIC はユネスコより “平和文化に対する証人モニュメント” の一つとして認定されており、世界の陶芸に捧げられた貴重な博物館です。現在もファエンツァの街には60を超える陶芸店が軒を連ねており、陶工やアーティストたちがファエンツァ・ブランドの陶磁器を作り続けています。

一方、日本で最初に発見された陶器の起源は新石器時代までさかのぼり、水や食料を貯蔵するための容器でした。岐阜県にある土岐市は、日本でも有数の陶磁器の主要生産地の一つとして知られています。岐阜県南部を指す名称の “美濃” 焼きの街として、土岐周辺では、良質な粘土が産出され、古くから陶磁器の生産がさかんでした。土岐市の郊外では山の斜面に掘って作られた穴窯と呼ばれる古代の窯が多数あります。これらの窯は岐阜県内に広く普及しており、すでに古墳時代(紀元前7世紀)の末期には、この穴窯の中で、須恵器と呼ばれる陶器が焼かれていました。1300年以上前に始まった土岐市での製陶業は現在も住民の生活の一部であり、毎年5月3、4、5日には日本三大陶器祭りの一つである “美濃焼祭り” が開催されます。また、1986年から土岐市を含む美濃地方で開催されている国際美濃陶磁器フェスティバルは、世界中の製陶産業の発展と成長を推進するためのイベントです。

そして、1979年(昭和54年)の10月23日に土岐市とファエンツァ市は、陶芸文化とその歴史を共有する為、姉妹都市提携を結びました。まるで遠距離を隔てた結婚のような二都市の友好関係は、職人の卓越した技と火の力を利用して貴重な陶磁器に姿を変える陶土をその絆の印として、毎年更新され続けています。 

2018年4月16日、ファエンツァ市にてジョバンニ・マルペッツィ市長と土岐市の加藤靖也市長の間で、この姉妹都市盟約の更新が行われました。記念すべきこの式典は、“陶芸”という共通言語を介して長年に渡り育まれた友好関係の証として、陶器でできた羊皮紙に両市長が署名し、印象深い式典となりました。

両都市を隔てる地理的な距離にもかかわらず、これまで多くのプロジェクトが実施されてきました。2004年には土岐市とファエンツァ市の文化交流をテーマにした写真集が出版されたり、土岐市ではイタリア式庭園が建設されました。また、ファエンツァで開催された陶磁器のイベントには土岐市から陶芸家たちが招待されました。2019年には、姉妹都市提携40周年を記念してファエンツァ市にて日本人陶芸家の展覧会が開催され、好評を博しました。

この二都市を結ぶ友好協定は、人の手によって作られた手工芸品の文化がその土台となっています。また、この友好関係を支えるたくさんの人の手と支援者が存在していることは言うまでもありません。その中でも、両都市の交流を25年間支え続けてきた、ファエンツァ在住の陶芸家TOMO HIRAI 氏は自らもファエンツァ式ルネサンスの影響を受けた数々の秀逸な作品を発表しています。

また、イタリアサッカーリーグ・セリエAで活躍した中田英寿氏も現役を引退した後、日本の伝統工芸産業の促進に尽力しており、人の手によって作られた工芸品が人々の生活に豊かさをもたらすことを確信し、ファエンツァのMICと共同で、美濃地方で開催された国際的な陶芸コンクールの総合プロデュースに携わっています。

ファエンツァ ー 土岐
1979年10月23日

ファエンツァ
土岐

エミリア・ロマーニャ州
岐阜県

ラモーネ川
土岐川

地中海性気候
寒冷だが温和

おすすめスポット
MIC(国際陶磁器博物館)
二バッロのパリオのイベント
おすすめスポット
セラミックパーク美濃
織部の里公園

ご当地フード
エシャロット・ラグーのクルズル

ご当地フード
鬼まんじゅう

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.micfaenza.org
www.gemellaggifaenza.it
www.jappi.jp
www.tooki-minoyaki.jp
www.toki-kankou.jp
www.city.toki.lg.jp

By |6月 26th, 2020|ニュース|0 Comments

フィレンツェと岐阜 平和を紡ぐ二都市の友情ストーリー

“持続する世界平和を望むことは、人類の願いであり、我々が調印した盟約の基本原則のう

ちの一つです”
1978年2月8日に調印されたフィレンツェ市と岐阜市の間でかわされた姉妹都市盟約の最初

の条項にうたわれています。

フィレンツェ市はルネッサンス発祥の地として知られ、まるで野外の博物館のような歴史的

市街地区は、街全体が世界遺産に登録されています。一方、岐阜市は戦国時代の将軍、織田

信長の時代に、いわば日本のルネッサンスが起こった地として知られ、信長によって岐阜を

中心に日本の統一が推し進められました。

フィレンツェと岐阜には多くの共通点があります。歴史的に類似していることのほかに、市

の規模と地理的な特徴がよく類似しています。さらに、両都市ともに繊維産業の中心地で

す。

フィレンツェは中世の時代にすでに、文化、経済、行政上の中心地として重要な都市でし

た。イタリア全土において、歴史上最も豊かな都市の一つであり、1865年から1871年のイ

タリア統一戦争の期間中は首都として機能していました。一方、岐阜も、日本の歴史上、大

変象徴的な都市ということができます。戦国時代には、東西交流の要所だったことを指し、

“美濃(岐阜の旧名)を制する者は天下を制す” と言われたほどです。1600年に徳川幕府の

始まりを決めた天下分け目の合戦 “関ヶ原の合戦” の場所は岐阜県内にあります。

さらに、フィレンツェ市、岐阜市、ともに重要な二つの川のほとりに位置しています。フィ

レンツェ市のアルノ川と岐阜市の長良川です。

両都市間での文化交流、業務提携はこれまで数多く行われてきました。その中でも、フィレ

ンツェで最も有名な服飾系スクール、ポリモーダファッションモードスクールと、岐阜女子

短期大学は提携校でもあり、交流と相互研究を深めています。

また、1945年に米軍による焼夷弾の爆撃で岐阜市が焼け野原になった、岐阜空襲の犠牲者

への鎮魂と平和への祈りを込め、毎年7月9日に、フィレンツェでは主要な教会の鐘が鳴ら

され、平和の旗が掲揚される、“平和の鐘” 事業が行われています。フィレンツェには、第

二次世界大戦の終戦を記念して1944年8月11日に鳴らされたマルティネッラの鐘があります

が、この鐘は毎年7月9日に岐阜市への友情の証として5分間鳴らされ、ヴェッキオ宮殿のア

ルノルフォの塔に平和の旗が掲げられるのです。

2008年10月20日の姉妹都市盟約締結30周年記念式典はフィレンツェのヴェッキオ宮殿、

200人広間にて開催され、記念の印として、カヴォナーナ広場に桜の木が植樹されました。

このカヴォナーナ広場には2002年から、岐阜市贈呈の “鵜飼い像” が設置されています

が、もともとはこの像は1983年岐阜市から贈呈された当初は、ヴィッラマンニャ通りのド

ン・ジュリオ・ファチベー二中学校の中庭に設置されていました。この鵜飼い像は日本の彫

刻家、館野弘青氏による作品で、岐阜県で1300年間脈々と続いている、伝統漁法 “鵜飼い”

(細長い小舟に乗り、鵜を利用し魚を捕る漁法)の様子を表現している像です。

 

 

両都市間では、芸術家同氏の交流、または文化、観光面においての交流を共同で推進してい

く相互協力の意思を数回に渡り、宣言しています。学生たちの交換留学、二都市間の経済お

よび、産業界の組織同士の交流の機会を常に奨励していくことで合意してきました。

2018年10月の姉妹都市盟約締結40周年記念の際には、フィレンツェ市長直々に岐阜市長へ

と一通の手紙が送られ、二都市間の友好関係の重要性を強調し、新しい交流を推進していく

意思が表明されました。この前年の2017年には、すでにフィレンツェ市の皮革製品製造企

業数社が岐阜市を訪れ、フィレンツェの伝統工芸である革製品製造のクラフトマンシップの

真髄を岐阜にて披露し、メイド・イン・フィレンツェ製品のプロモーションも行いました。

また、同年、岐阜市歴史博物館にて開催された特別展 “レオナルド×ミケランジェロ展” 

は好評を博し、フィレンツェのヴェッキオ宮殿やミケランジェロの生家を博物館にしたカー

サ・ブオナロッティ博物館から多数の作品が海を越えて貸し出されました。

 

岐阜は日本の中でも繊維産業がさかんなことで知られており、2019年には岐阜県の繊維企

業4社と地元の商工会議所が共同で “岐阜シャツプロジェクト” を立ち上げました。この

プロジェクトの一環として、トスカーナ州(フィレンツェがある州)の歴史的なシャツメー

カーと共同で、美濃和紙を70パーセント以上含む生地で作ったシャツを企画販売しまし

た。

 

この他、芸術的な側面からも両都市間の交流はさかんです。両国のアーティストたちによる

自国の伝統文化を紹介する劇場公演はこれまで数多く行われてきました。中でもトスカーナ

州の伝統文化を再生する目的で結成された劇団 “アミ―チ・ディ・キアンティ” はフィレ

ンツェの伝統民謡を日本語で歌うという試みの公演を岐阜市で開催しました。

 

日伊両国の伝統文化をお互いに理解し、尊重し合い、未来に向けて相互交流し続けていこう

という強い願いの証が、両都市の友好の歴史の中には、数多く見られ、今後もその努力は続

けられていくでしょう。

 

フィレンツェ ー 岐阜
1978年2月8日

フィレンツェ
岐阜

トスカーナ州
岐阜県

ルネッサンス発祥の地
鵜飼いの街

地中海性気候
温暖な気候

      おススメスポット:
歴史的市街地区
ウッフィッツィ美術館
ベッキオ橋
花のサンタ・マリアデルフィオーレ大聖堂

    おススメスポット:
岐阜城
正法寺の岐阜大仏

    ご当地フード:
パッパアルポモドーロ

  ご当地フード:
鮎菓子

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.kankou-gifu.jp
www.city.gifu.lg.jp
www.ccn.aitaine.jp
www.toscanapromozione.it
www.gliamicidichianti.it

 

By |6月 24th, 2020|ニュース|0 Comments

サンレモと熱海 自然によって結ばれた姉妹都市盟約

サンレモ市の日本庭園の美しさと熱海が誇る美しい熱海桜の景観は目には見えない糸で結ば

れています。

“花、音楽、歌” と聞いて真っ先に思い浮かぶ街の名前は?という質問に、皆さんはどの街

を思い浮かべますか?日本にはその答えに相当する街があります。イタリアでは“美しい花

と歌の街” と言えば、リグーリア州、花のリヴィエラ海岸の街、サンレモがあります。サ

ンレモは温暖な気候に恵まれ、花と音楽への深い情熱を誇る街です。また、バラ、カーネー

ション、観葉植物の見事な栽培が有名で、最高品質を誇る洗練された花づくりや緑の栽培に

は定評があり、この地域の最も重要な産業の一つとなっています。

サンレモにて年一回開催される、イタリア歌謡曲のフェスティバル、“サンレモ音楽祭”は

2020年で70周年を迎え、イタリア国内でも大変有名なメディア・イベントです。その知名

度はもはやイタリアだけにとどまらず、ヨーロッパ中、地中海全域でその名を知られるよう

になりました。サンレモ音楽祭グランプリ受賞者に贈られるライオン像は、イタリア・ポッ

プミュージック界における最も名誉ある賞であり、1958年にグランプリを受賞した、ドメ

ニコ・モドゥンニョがジョニー・ドレッリとペアで歌った “Nel Blu dipinto di Blu” (“ヴォ

ラーレ” としてのほうが有名)は、いまだに絶大な人気を誇り、イタリア人だけでなく世

界中の人に愛されている名曲です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、サンレモから10,000㎞離れた日本の熱海市は、伊豆半島の東側の付け根に位置し、相

模湾に面しています。東京からは南西に100㎞ほどの距離にあり、美しい海岸線と温泉で有

名な街です。“熱海” の名前は文字通り、“熱い海” を意味し、海から熱い湯が湧き出して

いたことから、古くから湯治の地として有名で、何世紀にもわたって “将軍御用達の湯”と

して将軍家に愛用されてきました。また、療養地として皇室の御用邸が建てられていたこと

もあるほどです。徳川幕府初代将軍、徳川家康は、熱海をこよなく愛し、これによって熱海

は日本の名湯治場としてその名を知られるようになりました。その後、昭和に入り、名だた

る日本文学界の文豪たちに愛された熱海は、川端康成、尾崎紅葉らの小説の舞台にもなりま

した。また、谷崎潤一郎はこの街で晩年を過ごし、三島由紀夫が足しげく通った喫茶店など

もいまだに現役です。

熱海市の市章は太平洋の色のブルーの背景が印象的で、市の花 “梅” の中に太平洋の波を

デザインし、その波の内側に熱海温泉を表したものです。また、熱海の顔ともいえる “熱

海サンビーチ” は青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル群、ヤシの並木通り、など外国の高

級リゾートを彷彿とさせるビーチで、サンレモのビーチとよく似ています。熱海は太平洋側

に面する港を持つため、漁業も主たる産業のひとつですが、漁業と並び、生花の栽培でも有

名な点はサンレモと同じです。熱海とサンレモ、この二つの街は遠く離れていますが、経済

面、文化面、地理的な観点から見て多くの類似点を持っています。

温暖な気候、優美な海岸線、花の栽培、そして音楽。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1975年、当時の熱海観光局次長がサンレモ市を訪問した際、両市がとても良く似ているこ

とに驚いたそうです。確かに、一見すると熱海の景観と花のリヴィエラ海岸のパノラマには

多くの類似した特徴が見られます。1976年11月、二都市の代表者の間で、姉妹都市盟約が

批准されました。この年を皮切りに両都市間で文化的交流が始まり、半ば当然のように始

まったこの友好関係は年を重ねるごとにその絆を深めてきました。

二つの都市は海とは切っても切れない関係を持ち、熱海市は太平洋に面し、一方、サンレモ

市はリグーリア海に面しています。

“海と花” にちなんだこの二つの街の深い友情関係の証として、熱海市にはサンレモ公園が

造園されました。この公園は南国の雰囲気漂うイタリア式庭園で、公園の西側の海沿いには

埠頭があり、そこから “サンレモ” と名付けられた遊覧船が運行しています。この小さな

遊覧船はまさに、サンレモ市への友情の証として存在し、船首にはサンレモ市の紋章も掲げ

られています。船付き場の近くにはイタリアの雰囲気を満喫できる “サンレモカフェ” も

あります。遊覧船内には海中展望室があり、乗船した途端、30分間の相模湾海中探検の旅

を楽しめます。海上からながめる熱海は、イタリアの姉妹都市であるサンレモ市の景観によ

く似ていることが更によくわかります。 

一方、サンレモ市にも二都市の友情の証が存在しています。かつて、あるスイス人実業家が

所有し、その後サンレモ市によって引き継がれたヴィッラ・オルモンド公園内では日本式庭

園を鑑賞することができ、この庭園は熱海市との友好関係に捧げられ造園されたものです。

濃い緑色の芝生のじゅうたんがしきつめられた枯山水式の日本庭園の中には、想像力を掻き

立てる岩や石があちこちに配置されており、イタリア原産ではない珍しい植物等も植えら

れ、典型的な東洋の雰囲気を創り出している庭園です。庭園内にある禅の哲学にインスピ

レーションを得て作られたコーナーは特に印象的です。

生花栽培に対する両都市の情熱に加えて、どちらの都市にも共通するのが音楽祭の存在で、

どちらの音楽祭も互いに長い歴史を誇ります。1977年にはイタリア・ポップミュージック

の祭典、サンレモ音楽祭にて、日本伝統芸能の和太鼓の演奏が催されたり、1982年には歌

手の田原俊彦さんがスペシャルゲストとして招待され、日本でも大ヒットした “君に薔薇

薔薇という感じ”(イタリア名・薔薇を君に)を披露しました。当時、熱海にて開催されて

いた “熱海サンレモ音楽祭” でも同様にイタリアからミュージシャンが参加して演奏を披

露しました。2016年には、姉妹都市盟約締結40周年を記念し、サンレモ市のベッレヴュー

エ宮殿にて記念式典が行われ、オペラコンサート等が催されました。この式典で、両都市の

友好関係が改めて再確認され、未来に向けて文化的および商業的な関係を今後も維持し続

け、より良いものにしていくことが両都市間にて承認されました。また、二都市間において

若者の交流を促進していくことを約束し、日伊両国間にとっても実りある将来をもたらせる

よう努力を重ねていくことが決議されました。

サンレモ-熱海
1976年11月10日

サンレモ

熱海

リグーリア州

静岡県

温暖な気候

温暖な気候

音楽と花の街

温泉と花の街

おススメスポット:
ヴィッラ・オルモンド
コルソ・マッテオッティ
コルソ・インペラトリーチェ

おススメスポット:
熱海城
温泉

ご当地フード:
サルデナイラ

ご当地フード:
海の

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

Websites:
www.visitsanremo.it
www.comunedisanremo.it
www.city.atami.lg.jp
www.ataminews.gr.jp
www.s-m-atami.co.jp

By |6月 9th, 2020|ニュース|0 Comments

コモと十日町 絹糸が紡いだ姉妹都市盟約

願い事が叶う時は、数分間しか叶わないものもあれば永遠に叶ってしまう時もあります。実 現しそうな願い事、反面、まったく実現しそうのない願い事だって存在します。イタリアの 作家、エルリ・デ・ルーカの有名な言葉が語るように、“子供たちの願い事は未来を形づく る”は、我々も知るところです。エルリが言った言葉の様に、ある一人の少女の願い事が発 端となり、姉妹都市協定締結の実現につながったという例があります。

1975年2月8日、当時9歳だったコモ市の少女ラウラ・クレリーチが日本の新潟県十日町市の 市長に一通の手紙を書きました。その当時すでに、十日町市とコモ市の間では商業上の取り 引きが数件成立していました。

「わたしは十日町市に行ってみたいと心から願っています。これまで本で読んできた日本の 素晴らしい物事を自分の目で見てみたいです。それから、私と同い年の日本の女の子たちと 出会い、日本の女の子たちがどんなことをして遊ぶのか、どんな風に暮らしているのかをこ の目で見てみたいのです」

十日町は1954年に発足し、市の紋章には、この街が誇る美しい自然環境と調和しながら発 展する都市の願いが込められています。

十日町市は冬の時季の豪雪と美味しいコメ作りが全国的に有名で、毎年2月には十日町雪ま つりが開催されます。全国屈指の豪雪地帯であるこの地域は織物業にとって理想的な環境を 提供し、卓越した絹織物業の伝統と、養蚕業は十日町の地場産業として地域経済の中核を成 す存在となりました。そして毎年5月3日には春の一大イベントとして “十日町きものまつ り” が開催されています。

そもそもアジアで発祥した、貴重で優美な絹織物は、西暦1000年頃アラブ人の手により、 まず最初にシチリア島にもたらされたことがわかっています。その後イタリアの他の地域に 広まったと言われており、当時ミラノを統治していたミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの 甥にあたるガレアッツァ・マリア・スフォルツァは絹織物産業を推奨し、領内の地主達に蚕 の餌となる桑の木を5本ずつ領地内に植えるよう命じました。こうして養蚕業、絹織物業が さかんになった北イタリアロンバルディア州北西部の街コモでは、1500年代から1800年代 半ばまでで、ラリオ産(コモ湖の別名をラリオと言う)絹織物業に従事する人の数が45000 人を数えるほどまでに発展しました。コモで有名なのは絹織物産業だけではありません。イ タリア文学の代表作、マンツォーニが著した「いいなずけ」の舞台としても知られていま す。また、乾電池の発明者として有名になり、化学者、物理学者としても活躍したヴォルタ はメタンガスやライターをも、この地コモで発明しました。

絹織物に捧ぐ愛と情熱を仲介にして、日本とイタリアの距離は急速に近づき、コモ市と十日 町市は1975年2月27日、1年間の準備期間、両都市の使節団の訪問を経てめでたく姉妹都市 盟約を批准しました。当時の二人の市長、アントニオ・スパッリーノ氏と春日由三(かすが よしかず)氏がコモ市のツェルネッツィ宮殿の評議会室にて調印しました。式典はこの姉妹 都市盟約締結の発端となった、コモの少女ラウラの手紙を読み上げ、開幕となりました。そ の後長年にわたり、多くの代表団が両都市への訪問を重ね、経済、商業、文化、教育、芸 術、スポーツなどあらゆる方面において親交を深め、2都市の絆は更に強化されていきまし た。

1989年には、コモ市長レンツォ・ピン二氏がコモ市の文化交流団体 “ファミリア・コマス カ協会” に、十日町市との友好親善活動の推進と活性化に関する業務を委託しました。 1955年には、コモ市は姉妹都市締結20周年を記念し、“ルチア”(マンツォーニのいいなず けに出てくる女主人公の名前)と名前の付いた小さな木造船(コモ湖の名物として知られ る)を十日町に寄贈しました。“ルチア”は十日町駅前に設置され、十日町市民に見守られ続 けています。2000年にはその返礼として、十日町からコモ湖畔のソマイーニ広場に、日本 人彫刻家藤巻秀正氏による“友愛”の記念像が寄贈されました。

この像はコモの少女、ラウラとペンパルで友情を育んだ、十日町の少女、木内聡子さんの二 人の少女がモデルになっています。二人が着物の布で戯れて遊んでいる様子を描いており、 姉妹都市盟約締結の発端となり、育まれ続けた小さくも絆の強い友情を象徴しているもので す。また、コモ市のサン・ジョバンニ駅に通じる階段のふもとに “十日町通り” が存在し ていることは多くの人が知りません。

2004年からはコモ市自治体は、前述したファミリア・コマスカ教会と共に、国際文化交流 の一環として学生を両都市に送る交換留学事業の推進を開始、日本文化に興味を持つ学生を 対象とし、両都市間の友好関係から生まれる絆を深めることを目的としています。さらに、 同年、十日町にて開催された第10回石彫シンポジウムの際に、コモ出身の二人のアーティ ストであるブルーノ・ルッツァ―二氏とマッシモ・クレリーチ氏が招待され、二つの作品を 製作しました。ブルーノ氏の作品は “絹に結ばれた姉妹都市” というタイトルで、十日町 […]

By |6月 3rd, 2020|ニュース|0 Comments

大海を隔てて歴史を刻む二都市の友情物語 チヴィタヴェッキアと石巻

文明発展の歴史にはしばしば、海が存在していたか否かが大きく関係しています。大陸と海の関係は、経済、商業活動に大きく貢献するだけでなく、国民の心理にも著しく作用します。果てしなく広がる大海原を日々見て過ごしている国民は当然、冒険や発見への意欲も増すはずです。

チヴィタヴェッキア市と石巻市の間で育まれた友情物語でも海は重要な役割を果たし、何世紀にも渡り、二都市は海に沈む錨の様にゆるぎない友情を築いてきました。

太平洋に面した石巻市、そしてティレニア海に臨むチヴィタヴェッキア市。

1615年に伊達藩の藩士、支倉常長が率いる使節団が出発した街が石巻市で、到着した街がイタリアのチヴィタヴェッキアでした。藩主伊達政宗の命により、1613年に月浦(つきのうら)を出航したガレオン船は常長率いる慶長遣欧使節団をのせ、2年後にチヴィタヴェッキア港に到着し、そこからローマに趣き、当時のローマ教皇パウロ5世に謁見しました。この使節団が派遣された目的は、経済的、商業的な目的だけではなく、日本からメキシコへの新しいルートを開通することを法王に請願するものでした。また、宗教的な目的としては、1597年2月5日に長崎で起こった26人のカトリック信者(西洋人宣教師、日本人カトリック信者を含む)が豊臣秀吉の命により磔の刑にて処刑されたという事件を弔うという目的もありました。

支倉常長は洗礼名をフェリペ・フランシスコ・ハセクラ(改宗後にマドリードにて取得した)といい、同年10月18日にチヴィタヴェッキアに到着し、市民に暖かく迎えられ、使節団はこの街に2週間滞在しました。

歴史に残る2文明の壮大な出会いを記念し、1971年両都市間に、2都市の過去、現在、未来を結ぶ姉妹都市協定が樹立しました。

石巻市は1933年に設立され、慶長遣欧使節団が出航した月浦の近くに位置しています。世界3大漁場のうちの一つに数えられる “三陸・金華山沖漁場” を有する港が石巻漁港です。

両都市間では、文化交流、代表団の訪問、交換留学など、絶え間ない交流が続いています。

チヴィタヴェッキアを訪問する際、何よりも魅了されるのは、やはり、1991年にリヴォルノ門近くのマルコーニ通りに創設された支倉常長の彫像と、1872年建造の日本人カトリック殉教者26人に捧げられた日本聖殉教者教会でしょう。この教会には、1951年から1957年にかけて日本人画家の長谷川路可画伯により作成されたフレスコ画があり、これは画伯からチヴィタヴェッキア市に捧げられたものです。教会内の後陣の両脇部分には長谷川画伯が街の守護聖人サンタ・フェルミナに捧げたフレスコ画、支倉常長に敬意を表し作成されたフレスコ画等が描かれています。また、この日本聖殉教者教会は、“小さき兄弟会” という修道会により管理されており、長谷川画伯作成の、ヨーロッパで唯一の着物を着た東洋系の顔立ちをした美しい聖母マリア様のフレスコ画が描かれていることでも有名です。

さらに、慶長遣欧使節団のイタリアでの足跡は、ローマのクィリナーレ宮殿のコラッツィエリの間の壁画にも、この使節団の法王謁見の様子が描かれています。

イタリアから何千キロも離れた東の果て、現在の宮城県石巻市、太平洋を見下ろす丘のふもとから、“サン・ファン・バウティスタ号” はヨーロッパに向けて処女航海に出発しました。この丘の上には展望台が設けられ、常長の彫像とともに、彼が辿った渡航ルート、記念碑が築かれ、イタリア風の庭園が広がっています。

2011年3月11日に発生した東日本大震災で三陸沖を襲った津波の猛威に曝された石巻市が復興に向けての取り組みを開始した際も、二都市の友情はそのはるかな距離をものともせず、その力を発揮しました。ただちに、チヴィタヴェッキア市に石巻支援委員会が組織され、石巻復興を援助する資金を集めるための一連のイベントが開催されました。

同年10月、姉妹都市締結40周年を記念して、駐イタリア全権大使の河野雅治大使が、チヴィタヴェッキア市を訪問、世代を超えて受け継がれてきた両都市間の友情の証を確認し合いました。

また、2015年10月18日には、サムライ支倉常長率いる使節団のチヴィタヴェッキア入港400周年を記念して、チヴィタヴェッキアの街の中心部にて、当時の使節団が街に入場する様子を再現したイベントが行われました。 

毎年10月にはチヴィタヴェッキアでは日本文化のフェスティバルが開催され、文化交流、代表団による両都市訪問が継続的に行われています。

一見、はるか遠く離れた二つの都市、チヴィタヴェッキアと石巻。長い歴史の途上、文化的、経済的に幾度か強い接点を持ったこの二つの都市は、2都市を隔てる大海原からもたらされた絶妙なバランス感覚を保ちながら、未来への友好関係を育む新世代に刺激を与え、今日も生き生きとした友情を育んでいます。

チヴィタヴェッキア ー 石巻
 1971年 10月

チヴィタヴェッキア
石巻

ラツィオ州
宮城県

温暖な気候
温暖な気候

ローマ帝国時代からの港湾都市
三陸金華山漁場の主要港

おススメスポット:

 ミケランジェロ要塞

トライヤヌス浴場跡

日本聖殉教者教会

おススメスポット:

サン・ファン・バウティスタパーク

石ノ森萬画館

金華山

ご当地フード:

  チヴィタヴェッキア風魚介スープ

ご当地フード:

石巻焼きそば

執筆  Floriana Maci 
翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 27th, 2020|ニュース|0 Comments

フィレンツェ・京都 未来を構築し結びつく二つの古都

文化と平和の融合を育む遠く離れた二つの都市フィレンツェと京都。フィレンツェは、レオ

ナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、世界的に有名なルネッサンスの主人公たちを

生んだ街です。一方、京都は千年以上に渡って、日本の文化と精神性をかたくなに守ってき

た華やかな街です。堅固な石でできた歴史を物語る古い街並みと、大理石からなる教会の

街、フィレンツェ。半面、京都の町はいにしえからの貴重な木造建築の寺社仏閣に溢れてい

ます。

この両都市はいずれも、かつて、国を代表する文明の首都として栄えましたが、地理的には

あまりにも離れています。

京都は、794年から1868年の間、奈良から遷都した後、首都として栄えました。一方、フィ

レンツェは1865年2月から1871年6月までの6年間、イタリア王国の首都としてその栄華を

極めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都市と自然の関係性について語るならば、フィレンツェに関しては自然に対する支配の結果

と言うことができますし、京都に関しては自然との神秘的な融合から成り立った都市という

ことができるでしょう。

気候の観点から見ても、両都市は全く正反対の特徴を持っています。地中海性気候に属する

フィレンツェとモンスーン気候帯に属する京都。どちらもユネスコ世界遺産に登録されてお

り、芸術と食文化への愛でつながる、他に類を見ない素晴らしい文化を持つ二都市です。

昭和34年(1959年)に在日イタリア大使が京都市長を表敬訪問し、フィレンツェ市との姉

妹都市提携調印の可能性を打診する会談の機会を持ちました。同年、京都市長がフィレン

ツェを訪れ、その比類のない街の美しさに感銘を受けました。

1963年(昭和38年)京都市議会はフィレンツェとの姉妹都市提携案を承認し、同年9月22

日、調印が実現し、めでたく日伊二国間の文化と歴史を結ぶ、記念すべき橋が完成したので

す。

フィレンツェはイタリアの都市の中でも、日本人に最も愛されている都市であり、同時に京

都もイタリア人に最も愛されている日本の都市です。

トスカーナ州の州都であるフィレンツェの当時の市長、ジョルジョ・ラ・ピーラ氏は、この

盟約締結を強く望み、前任だった臨時市長レッロ・レゴーリオ氏と京都大学教授の野上奏一氏の間

で仮調印されていたものを正式に、ジョルジョ氏が署名し、盟約は締結されました。当時の京都

大学教授、野上奏一氏はイタリア文学、イタリア言語学の教授でもあり、フィレンツェ出身の文豪

ダンテ研究の日本における第一人者としても有名でした。この盟約

調印はフィレンツェにおける、地中海諸国、ヨーロッパ兼以外の国との間に締結された初めての

姉妹都市盟約の調印となりました。

1968年にはフィレンツェのガヴィナ―ナ地区に「Via Kyoto」(京都通り)と命名された通

りが誕生しました。

両都市間では、観光業、ファッション、伝統工芸、テクノロジー開発、など様々な分野で交

流、コラボレーションが活発に行われています。

1998年には、京都の高台寺専属の造園家、北山安夫氏が手掛けた日本庭園が、フィレン

ツェのミケランジェロ広場内にあるバラ園の中に寄贈されました。この日本庭園は松籟庭園

と名付けられ、漢字は違いますが、”松籟(風になびいて松の葉が擦れる音を現す言葉)” 

と ”将来” をかけ合わせた二つの意味を持つ言葉が使われています。また、古来、日本人

は松の葉が風で擦れる音を「ショウ、ショウ」という音で表していました。そして、松はこ

の庭園で最も数の多い樹であることからこの名が採用されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005年には、姉妹都市提携40周年を記念して、フィレンツェにて様々なイベントが開催さ

れました。中でも、ガビネット・ヴィスー会場で催された、巨匠フォスコ・マライ―二

(フィレンツェ生まれの写真家、東洋学者)による “フィレンツェ、京都 対比される二

つの街” と題された写真展は大変な好評を博しました。

また、フィレンツェが誇る世界最古の薬局と言われ、ドメニコ派修道院の僧侶による製薬活

動に起源を持つ1221年創業のサンタ・マリア・ノベッラ薬局がこの機会を記念し、“京都の

香水” を発表しました。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は現在、民営化されており、京

都や日本国内の様々な都市にも直営店を展開しています。この記念すべき香水はフィレン

ツェの街のシンボルである百合と同じとして称されるアイリスの花束の香りを基調にし、日

本の花の代表ともいえる官能的な蓮の花の香りをミックスした両都市の融合を象徴する特別

な香水でした。

2006年には、フィレンツェの中央市場と京都の錦市場との間に友好協定が調印され、両都

市の誇る食文化やワイン産業の促進を強化し、さらに豊かにするため、相互的に取り組むこ

とが決定されました。

両都市の姉妹都市提携記念日は10周年ごとに華々しく祝賀されることが決まり、50周年を

迎えた2015年はヴェッキオ宮殿の五百人広間にて、フィレンツェ市長のダリオ・ナルデッ

ラ氏と京都市長の門川大作氏により、将来50年先の友好関係をも祈願し、協定が更新され

ました。

我々誰もが虜にされてしまう、甲乙つけがたいこの二つの華麗な文化都市、フィレンツェと

京都。この二都市間で、我々の心を奪うのは、ボッティチェッリの描いたヴィーナスと戯れ

るはかなく咲き誇る桜の花や、天才レオナルド・ダ・ヴィンチさえも仰天する金閣寺、幾重

にも連なる美しい木造の寺社仏閣群と総大理石でできたサンタ・マリア・デル・フィオーレ

大聖堂の洗礼堂などです。

フィレンツェでは華々しい美しさが私たちを悩ましく圧倒し、半面、京都ではその美しさを

寺の壁の向こう、竹の森の中、禅の庭の岩、哲学の道で、発見するのです。

京都のサッカーチーム、京都サンガ(前:京都パープルサンガ)のユニフォームにはフィレ

ンツェの街のシンボルカラーである紫が使用されています。

こうしてたくさんの対話を経て、強い絆を育んだ二都市の物語は今後も末永く続いていくこ

とでしょう。

フィレンツェー京都
1965年9月22日

フィレンツェ
京都

トスカーナ州
京都府

地中海性気候
モンスーン気候

百合の街
寺社仏閣の街

ユネスコ世界遺産
ユネスコ世界遺産

見るべきスポット
歴史的市街地区
ウッフィツィ美術館
ヴェッキオ橋
サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂

見るべきスポット
伏見稲荷大社
金閣寺
嵐山
錦市場

ご当地フード:
パッパ・アル・ポモドーロ
ご当地フード:
ニシンそば

執筆  Floriana Maci 

翻訳   土田 ゆかり (Yukari Tsuchida)

By |5月 20th, 2020|ニュース|0 Comments

ビエッラと桐生が紡ぎだす姉妹都市物語

地球の反対側に位置する二つの都市の物語が、色鮮やかで様々な糸で織られた貴重な織物のようにその伝統産業と記憶を我々に教えてくれます。

遠く離れた地球上の二つの都市、北イタリアピエモンテ州アルプス山麓のふもとの都市、ビエッラ市と、日本の群馬県赤城山麓の裾野に栄える桐生市。両都市ともに古くから織物産業の伝統が息づき、この共通の伝統産業が両都市の姉妹都市締結の批准に大きく寄与しました。

1963年、在日イタリア大使が桐生市を訪問、姉妹都市協定調印への交渉を開始、その後4月にビエッラにて協定調印、そして10月には桐生でも同じく調印され、めでたく姉妹都市としてその道のりを歩み始めました。

桐生市は関東平野の北部に位置し、東京からはおよそ100キロ離れた場所にあります。1300年以上前に絹織物の生産がはじまった、東日本における絹織物産業の中心的な存在です。

奈良時代の752年にはすでに、桐生織りが宮廷に献上されていたという記録が残っており、戦国時代(1600年代)には、関ヶ原の合戦で使用する軍旗の生産を桐生の民が請け負っていました。また、桐生では長年、政府への税金を絹織物で納めていました。桐生織りの誕生は、地元に根付く“白滝姫伝説”の中にうたわれており、この地方に根強く残る民謡“八木節”の中でも、かつての桐生で絹織物産業がさかんに行われていた様子が生き生きと歌われています。

一方、イタリア半島の北部、ビエッラ市は2000年近く昔のローマ帝国時代から、毛織物産業が普及していたことがわかっています。ビエッラ県内のレッソーナという所で出土したローマ帝国時代の “サガリオの碑板” に農民のための目の粗い毛織物の服を作っていた職人たちがこの地に存在していたことが記されています。また、1245年には毛織物産業の著しい発展により、法律によって羊毛ディーラーや、紡績業者の取引が厳しく規制されたこともありました。19世紀初期には、家内工業としても毛織物業が普及し、この地方の家々では一家に一台織機を備え、家庭用、または小売業としても発展し、地域の基幹産業としての地位を確立していきました。

ビエッラで育まれた伝統工芸、文化遺産と街の歴史を鑑賞できるのは、現在ビエッラ地域博物館として生まれ変わった16世紀建造の“サン・セバスティア―ノ修道院の回廊”です。

一方、桐生ではこの街のマスコット・キャラクターとなった“キノピー”が人気です。キノピーの頭は、桐生市の近代産業遺産であるのこぎり屋根の工場がモチーフとなっており、のこぎり屋根の工場は桐生の近代化を支えたこの街のシンボルとしてかつての産業の繁栄を今に伝えています。

ビエッラがこれまで、“羊毛の街”としてその名をほしいままにしてきたのと同様に、桐生も今や、その絹織物産業とその芸術性は大変有名になりました。地元の伝統産業から出発し、現在では有名な世界的デザイナーとの共同開発、地元企業ブランドの確立により、この土地で培われた職人の実直な技術が世界中に桐生ブランドを知らしめています。

両都市の間で紡がれた姉妹都市という名の織物には、国際文化交流、留学生のための奨学金、ファッションショー、国際的なコンクール等が織り込まれ、その結びつきをより強いものにしてきました。例えば、1965年7月にビエッラ市自治体からの奨学金を得た最初の日本人留学生は田沢千代子さんでした。これを契機にビエッラを訪れる日本人留学生、旅行者のグループは絶えず、同様に桐生を訪れるイタリア人も跡を絶ちません。1993年には桐生にて“桐生イタリアウィーク”が開催され、一方、ビエッラの紡績、繊維企業が軒を連ねる“ヴィア・デラ・ラ―ナ(羊毛通り)”でもこのイベントのためにたくさんの企画とアイデアが生まれました。

また、1995年8月には、二人のイタリア人が“カシミアロード・プロジェクト”と称するプロジェクトを立ち上げ、ビエッラから自転車で出発し桐生を目指しました。実に22.000キロの距離を走破し、9月20日に桐生に到着。その間、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、モンゴル、中国を経由し、ウール、カシミアの原材料生産国の地元の文化に触れるというプロジェクトの目的を果たしたのです。

2003年11月21日の姉妹都市調印40周年記念日には、両都市間の歴史に残る記念消印がイタリアで発表されました。

さらに、2010年4月にビエッラ市のエンリコ・グレンモ青年が自転車でビエッラを出発しました。目的地は?もちろん桐生です。5か月後の9月に無事到着し、桐生市長を表敬訪問しました。この偉業は両都市の歴史の中でひときわ輝くストーリーです。

ビエッラと桐生の間で紡ぎ続けられた国際文化交流は、織物をなす縦糸と横糸のように完璧なまでに絡み合い、結びつき、両都市間に強い絆が生まれました。この絆のあかしはファッションの世界にて突出した個性として確立しています。両都市が歴史の中で培ってきた伝統と職人技に対する献身と愛を、高品質で創造性溢れた織物を通して世界中に示しているのです。 

ビエッラ ー 桐生
1963年 10月 12日

ビエッラ
桐生

ピエモンテ州
群馬県

ビエール・アルプス
赤城山

亜アルプス気候
寒冷な気候

急流、渓流が豊富
桐生川

見るべきスポット
毛織物産業遺産建築物
マドンナ信仰の巡礼地・オローパ
ゼニヤ自然保護地区

見るべきスポット
絹織物産業遺産建築物
織物参考館・紫
梅田湖

ご当地フード
アンドルノのラタフィア(デザートワイン)

ご当地フード
ソースかつ丼

執筆 フロリアーナ・マーチ 
翻訳 土田 ゆかり

By |5月 13th, 2020|ニュース|0 Comments

ジャピット・プロジェクト2020年 2021年

類まれな美しさを持つ二つの国、日本とイタリア両国の友情に捧げるJAPIT(ジャピット=ジャパン&イタリア)プロジェクトの第一弾は、1960年~2016年にかけて調印された42の姉妹都市協定についての連載企画からはじまります。地球の反対側に位置し、極端に異なる文化を持つ日本とイタリア。両国の間には、日本人やイタリア人本人たちにも説明しきれない繊細で深い絆が存在し、これまでも二国間で幾度となく対話が持たれてきました。そして、まるで恋人同士のように魅了し合い、時にはお互いの違いをまざまざと思い知ることにより、そこから、世界で他に類を見ない独創的な日伊プロジェクトが生まれると私たちは考えます。

 テゾーリ・ディ・イタリアとテゾーリ・オブ・ジャパンは共同でこのジャピット・プロジェクトを始動し、両国間の歴史、文化、ビジネス等、様々な方面から両国の友好関係をクローズアップします。その初回は、1960年5月3日、日伊間で初めて調印され、今年60周年を迎えたナポリと鹿児島を結んだ姉妹都市盟約についてです。最終回は2016年に調印された最も若い姉妹都市、ティヴォリ市と湯河原市までバトンは渡ります。
日本、イタリア両国籍の編集者で構成される我々の編集チームが執筆する記事では、姉妹都市提携を結ぶことになった理由、その目的、達成された成果、進行中の活動、さらに、未来に向けてのプログラム等を説明するとともに、この84の都市のそれぞれの物語をクローズアップし、その魅力を読者の皆様に届けます。このジャピット・プロジェクトはグローバリゼーション化の更なる発展、国際交流のよって育まれるきずなを強化するシンボルとなるはずです。
両都市間で築かれた歴史を再構築し、生きた情報を収集することで生まれるこのプロジェクトを前進させるため、イタリア、日本両国において活動中の団体、協会などに協力を要請するとともに、日本文化、イタリア文化の愛好家、研究者の方にも広く協力をもとめるものです。

日伊間の姉妹都市のほんの数例を挙げると、1965年調印の京都とフィレンツェ、1976年、熱海とサンレモ、1981年、大阪とミラノ、1996年、東京とローマ、2005年、名古屋とトリノ、そして同年、板橋区とボローニャ市。
日本とイタリアの素晴らしい友好関係の誕生はそのルーツを1615年にまでさかのぼることになります。
仙台藩主 伊達政宗の命により、藩士 支倉常長が慶長遣欧使節団の使節として、スペイン王国およびローマ教皇パウロ5世のもとへと派遣された際、イタリアのチヴィタベッキア港から上陸し、日伊間の友好関係の門戸を開いたのが、はじまりです。その後、数世紀を経て、1971年にチヴィタベッキア市と宮城県の石巻市は正式に姉妹都市協定を結び、今日まで友好関係を築き上げてきました。

姉妹都市の友好関係が持つ、その魅力と影響力は大変大きなものがあります。しかしその締結までの道のりは長く、過酷なものです。外交上および、実務上の観点から見ても、また、二国間の外交的、社会的、経済的状況を鑑みると、両国の最大限の努力、高い協調性、相互責任が必要不可欠なことはいうまでもありません。
日本ではこれまで、1762もの姉妹都市協定が結ばれており、その数はイタリアがこれまで調印した協定数 2755(ヨーロッパの都市間のみ) からはほど遠いものの、国際協力プロジェクトに対して、日本がどれほどオープンで協力的かを如実に物語っている数字と言えます。(出典:CLAIR – Council of Local Authorities for International Relations)
これから2年間にわたり、60冊のテゾーリ・オブ・ジャパン発刊を予定しており、読者の皆様と60回、過去にタイムスリップする旅が始まります。このジャピット・プロジェクト第一弾の主人公である84都市をご紹介するための42歩の足跡、そこには二都市を結ぶ友情物語を作ってきた、人、歴史、文化遺産がたくさん詰まっています。発刊までお待たせする間、在イタリア日本国大使館のウェブサイトにて、最新の日伊姉妹都市リストをご参照ください。

執筆:リッカルド・ドゥルソ
翻訳:土田 ゆかり

By |5月 11th, 2020|ニュース|0 Comments

ナポリ・鹿児島 姉妹都市盟約60周年の友情

5月3日は日本の鹿児島とイタリアのナポリのいわば結婚60周年ダイヤモンド婚の記念日です。イタリアで初めて日本の都市との友情と文化交流を確立したのがナポリです。

ナポリと鹿児島を第一弾として始まるJAPIT (ジャピット=ジャパン&イタリアの略称)プロジェクトは、稀有な美しさを持つ二つの国、日本とイタリアに捧げられた連載企画です。1960年から2016年に渡り、調印され両国の絆を深めてきた42の姉妹都市についての特集です。

鹿児島とイタリアの最初の出会いは16世紀までさかのぼります。1549年に鹿児島に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本人として初めて洗礼を受けた鹿児島の青年ベルナルド (日本名は不明) に由来します。ベルナルドは日本人初の留学生の一人として、当時のローマ教皇パオロ4世に謁見するため、ナポリを経由してローマに到着した日本人のうちの一人でした。

また、鹿児島は古くから、“東洋のナポリ” と呼ばれています。有名なナポリ湾とベスビオ 火山を背景にした景観が見事なナポリと同様、鹿児島も錦江湾が取り囲む雄大な桜島のパノラマが望め、両都市は、まるで絵葉書のようなよく似た美しい景色をもつことで知られています。

両都市間の最初の交流は1955年ころに始まり、姉妹都市提携は1960年5月3日に調印されました。姉妹都市提携の際、1958年から1964年まで駐日イタリア大使として駐在したマウリリオ・コッピ―二大使が調印しました。5月14日には鹿児島にて姉妹都市盟約を祝う公式式典が盛大に行われ、同年12月9日にはナポリにて、同様の調印式典が催され、その際、訓練船鹿児島丸が日本からはるばるナポリまで、処女航海をはたしました。このナポリでの調印式典開催2か月前、鹿児島の街のある通りが “ナポリ通り” と命名され、一方、ナポリのヴォメロ地区にも鹿児島通り(Via Kagoshima)が存在することは多くの人が知りません。
両都市間の友情は年を重ねるごとにその絆を深め、毎年、鹿児島市民の代表団が報奨旅行としてナポリを訪問します。

1991年3月25日には、鹿児島市で “ナポリ号” と命名された路面電車が導入され、市内を縦横に走っています。
2010年には、姉妹都市盟約50周年を記念して両都市で盛大な祝賀会が催されました。ナポリのビジネス地区に “ラルゴ鹿児島” と命名された広場が誕生し、地球の反対側の日本では鹿児島市内のレストランが参加する、鹿児島独自の食材を使ってイタリアン・メニューを創作するという「ナポリ・プロジェクト」が発足しています。
そして、60周年記念は?
残念ながら、新型コロナウィルス感染拡大を懸念して、両都市間で予定されていた主要なイベントが中止、または延期となりました。ナポリでは鹿児島からの代表団、ゲストの到着、コンサート開催も予定されていました。一方、鹿児島でも5月3、4日に「姉妹都市盟約60 周年記念 かごしまの風と光とナポリ祭」が開催予定でした。イベントは中止、延期となり ましたが、鹿児島とナポリの友情は当然ながらこれからも生き続け、両都市がつづるページ にはまだまだたくさんの伝えたいことがつまっています。

ナポリ・鹿児島
1960年5月3日
姉妹都市盟約60周年

ナポリ
鹿児島

カンパーニア州
九州

ヴェスビオ火山
桜島

ナポリ湾
錦江湾

温暖な気候
温暖な気候

青い空と海
青い空と海

ラルゴ鹿児島 ビジネス地区
鹿児島通り  ヴォメロ地区
ナポリ通り
路面電車 ナポリ号

見るべき観光スポット
世界遺産 ナポリ旧市街地区
見るべき観光スポット
世界遺産 仙巌園

食べるべきもの
ナポリピザ
食べるべきもの
かごしま黒豚

執筆 Floriana Maci 翻訳 Yukari Tsuchida

Dall’Archivio Storico Istituto Luce

By |5月 4th, 2020|ニュース|0 Comments

“メイド・イン・イタリ―” 産業の復興に向けて、テゾーリ・ディ・イタリアは実行委員会をスタートさせます。

テゾーリ・ディ・イタリアは、現在世界中を脅かしている経済危機に対してイタリア企業をサポートするプロジェクト “S.O.S Teniamo l’Italia ” (イタリアを支援しよう) キャンペーンを遂行するプロフェッショナルチームを編成しここに公式に発表します。

募金活動だけにとどまらず、人と企業を建設的に結びつけることを目的とし、企業家同士の結束を推奨し、イタリア経済の再生を全面的に支援するプロジェクトを始動、イタリアで発生し始めている多数の問題をクローズアップし、その解決に向けて最大限の努力を注ぎます。

当委員会は二つの評議会によって構成されます。一つは、ジャパン評議会。日伊両国の政府機関、企業、協会等を通じて “S.O.S Teniamo l’Italia” キャンペーンを普及させることを趣旨とし、日伊両国だけでなく世界にもこの輪を広げることに従事します。

二つ目はインターナショナル評議会。全世界にこのキャンペーンを普及させると同時に

“メイド・イン・イタリー” 産業復興に向け、新しい、経済面、文化面での国際的なパートナーシップを立ち上げる役割を果たします。

さらに当委員会は今後、イタリア産業界が活動を再開する局面に際し、新型コロナウィルスに関する保健衛生情報だけでなく、経済活動再開時に従わなければならない規則、その他の有用な情報を一般市民および、企業に提供していきます。

したがって、テゾーリ・ディ・イタリアは、現在の緊急事態に関連する保健衛生情報の提供、また、今後のイタリア社会、経済の再興を促進する戦略企画、および、文化共有活動、イベント、等々、全ての活動を統合することにより、2020年の活動計画を再編成します。 

当実行委員会は以下のメンバーで構成されます。

・テゾーリ・ディ・イタリアCEO リッカルド・ドゥルソ
・WJネットワーク取締役  ヴィ―ト・ロンバルディ
・テゾーリ・ディ・イタリア・ジェネラル・コーディネーター  クラウディア・メーレ
・ドゥルソ・インターナショナル・マネージメント取締役   リッカルド・デ・ルーカ
・テゾーリ・ディ・イタリア地域コーディネータープーリア州担当 フロリアーナ・マーチ
・テゾーリ・ディ・イタリアネットワーク通商部門担当   チェリーネ・アルカーラ
・テゾーリ・ディ・イタリア編集協力   土田 ゆかり
・テゾーリ・オブ・ジャパン・ディレクター   星屋 進児
・ハイ・クオリティー・イタリー・ジェネラルマネージャー ジュリアーナ・ダントゥオーノ
・レストグループ取締役   ラーラ・トリチェッリ
・レストグループディレクター  ロレーナ・ベッロッティ
・アメリカ国際ビジネス戦略コンサルタント  バルバラ・パンサ
・日本イタリア観光コンサルタント   レナート・リッチョ
・観光コーディネーター   アドリア―ナ・リッチョ

By |4月 20th, 2020|ニュース|0 Comments